残心【2】
「本当に悪いって思ってる? 今は適当に謝っておけば良いなんて考えてない?」
『……』
「夏夜はペットでも人形でもないんだよ。ちゃんと心があるんだよ、なのに」
携帯から耳を離して大きく息を吸い込んだ。
本当は知っている、一成は『適当に謝る』なんて器用なことが出来る人じゃない。
告げられた方が傷つくことを知っていて、悪いと思っていてそれでも彼女の願いを優先させようとしているのだ。
一人称である『夏夜』が頻発するのは、それだけ心が不安定になっている証。
「夏夜は会いたくないっ。だいたい何で会わなきゃいけないの? 夏夜は一成くんが好きなんだし、彼女さんは夏夜から一成くんを取った人なんだよ。愛想良く振舞うなんて絶対無理!」
まず一成は自分のものであるという認識から間違っているのは棚に上げて、夏夜はぎゅうっとパウダービーズのソファを握り締めた。
指と指の間で丸く変形した白い布地に今度は親指を押し込んで。
『それでも構わない。お願いだ』
「嫌だってば」
『代わりに何か一つワガママ聞いてやるから』
じゃあ付き合って。
従妹じゃなくて女の子として扱って。
彼女さんと今すぐ別れて。
……そう言うとあなたは困るくせに。
「そう言えば、夏夜が言うこと聞くと思ってるんでしょ?」
相手が一成でなければとっくに電話を切っていたはずだ。
逆に言えば一成からの電話を夏夜は切れない、どんなに強がっても最後には縋ってしまう。
終了ボタンを押す意思に反してピクリとも動かない指先――なんて役立たずな体だろう、と夏夜は肩を落とした。
すると、聞き覚えのない軽やかな声が耳を打つ。
『もしもーし?』
電話の相手が代わったと夏夜はすぐに理解し、その場にいない彼女に向けて剣呑に目を細めた。
この人が夏夜に会いたいとわざわざ言い出した一成の彼女に違いない。
「あなた、誰……?」
『はじめまして、雪下日生(ゆきしたひなせ)です。君がなっちゃん?』
「夏夜(かや)です」
名前の読みを間違えられるのは仕方ないと割り切っているが、勝手にあだ名までつけられたのは初めてだった。
『うん知ってるよ。夏の夜でなっちゃんなんだよね。あ、わたしはお日さまが生まれる、で日生って書くの。ひなちゃんでも日生ちゃんでも好きなように呼んで!』
「はあ……」
実際に見た彼女さんは可愛くて素直な人なんだろう、きっと。
一成の見る目は確かなはずだと自分に言い聞かせて曖昧な返事をする。
相手が代わったとたん躊躇いなく切れるようになる自分の精神が不思議だった。
寧ろ一方的に携帯を叩きつけて切りたい、けど一成に恥はかかせたくない。
夏夜のことであの人が悪く言われるのは御免である。
『でね、唐突なんだけどこっちに来ない? 話を聞いてからずっと、わたしなっちゃんと会ってみたくて』
(一成くん、夏夜のこと喋ってたんだ)
どんな話をしていたのか聞きたくもあり、目を背けたくもあり。
幾分か冷静さを取り戻した夏夜は出来るだけ静かに、彼女さんを責める口調にならないように問いかけた。
「会いたいって何でですか? 夏夜は一成くんの従妹でしかないんですよ」
『何でって……。会いたいから』
彼女が自分に対して危機感を抱いているのなら、大丈夫だと暗に伝えたつもりだった。
一成の眼中にすら入っていないのだから敵情視察なんてする必要がない、と。
なのにこの言葉、嫌味も何もなく純粋に夏夜に対する興味だけを伺わせて。
お陰であっけに取られ、暫し言葉をなくしていた。
「夏夜は会いたくないです」
『まーまーツレナイこと言わないで? 奢ってあげるよ』
「そういう問題じゃなくて」
『あ! 大丈夫よお菓子でつられたからって誘拐なんかしないから!』
「子供扱いしないで下さい! もうお菓子でつられる年じゃないです」
やや声を荒げればそれまでの勢いが嘘だったかのようにぴたっと止まって、また遠くでBGMのカノンが聞こえてくる。
黙り込む彼女に内心慌てていたのは夏夜だった。
……どうしよう、これはフォローするべきなのかな。
だからって『行きます』とは口が裂けても言いたくない。
『でもホントの話、なっちゃんに会いたいの。仲良くしたいし、わたし一人っ子だから妹みたいに可愛がりたい。一成が羨ましいな』
夏夜は携帯を両手で持ち直し、まじまじと画面を見つめた。
「あの雪下さん。夏夜の声、さっき聞こえてましたよね? 夏夜は一成くんが好きなんですよ。子供はライバル視すらしてくれないってことですか?」
『ううん違う! ただ一成を好きな子どうし仲良くなれたら良いなって、思っただけで』
偽善だ、と思う。
好きな人に彼女という存在がいるのは認められても、夏夜の性格上一緒に仲良くなんて出来る訳がないし、望み通り一成の可愛い従妹を演じてもどこかでボロが出るに違いない。
(あ、可愛くないってことはもう分かってるのか)
それならどうして自分と関わろうとする?
彼女だってこんなツンケンした夏夜と付き合っていくうちに嫌になるはずなのに。
それに自分が彼女を慕うなんてまさか、天地がひっくり返ってもありえない。
ありえないありえない、そんなの絶対夏夜じゃない夏夜の顔と声をした他の誰かだ。
……でも、もしそうなれたら。
途切れそうになる微かな声を振り絞って、一度、名前を呼んだ。
「一成くんと、代わって下さい」
『うんっ』とどこか嬉しそうに彼女は言って、少しするとまた一成の気配がした。
『……俺だけど、夏』
「ワガママ聞いてくれるって言ったよね」
最後まで言う前に夏夜から切り出した。
これは彼女に説得されたんじゃない、夏夜が自分で決めたのだと伝わるようにきっぱりと。
「一つお願いして良い?」
『何?』
一成の声が強張ったのが分かる。
自分で言った手前、とんでもないお願いをされたらどうしようとか考えているのだろうか。
そうだったら妙に可笑しい。
「別に付き合ってとか彼女と別れてなんて言わないから安心して良いよ。何にするかは……時間かけてゆっくり考える。今どこにいるの」
『べーた、って分かるか? 学園近くの喫茶店で前に一緒に行った』
「分かった、今から行くね」
手短に電話を切り、白のダッフルコートをクローゼットから取り出し、羽織って定期の入ったバッグを斜めに引っ掛ける。
黒い厚地のマフラーはカシミヤ、これも前に一成に買ってもらったもの。
自分から従兄関連のものを取り上げたら生活出来ないかもしれない、なんてちょっと考えた。
これだから母にも言われるのだ。
「ママ、ちょっと出かけてくるー」
簡単に言って家を出た。
一成第一主義は、まだ返上できそうにない。
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