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残心【1】
 去年の冬から愛用している白い携帯電話は、夏夜の大好きな従兄がわざわざ選んで買い与えてくれたものだ。
 それがさっきからチカチカ点滅している。

 メール受信か、あるいは不在着信のどちらかだった。

「早く見れば良いじゃない」

 夏夜はリビングで一人用のソファに座り、他にわき目も振らずじっと携帯を眺めていた。
 携帯から懸賞に応募したとか、何らかのもっともな理由があるわけではない。

 寧ろ差出人は予想がつく、アドレス帳に登録してある人数が極端に少ないせいで。

「見たいけど見たくないの。ママにはこの気持ち分かんない?」
「少なくとも携帯一つじゃそう思えないわね」

 二人用ソファの端を選んで座る母は肩の高さで切られた艶のある黒髪をサラリと揺らし、膝の上に置いたハードカバーの重たげな本から少しだけ目を離して上目遣いにこちらを見た。

 今読んでいるのは『ハムレット』。
 小学校低学年の頃、夏夜も母に薦められたが最初の方を軽く読んだ程度だ。
 どんな話だったっけあれ。

 ……なんて、現実逃避しても仕方ないよね。

 自分にそう言い聞かせて夏夜は脱線しまくった思考を止めた。


 仁科の茶会が終わってから数日が経ち、そろそろ学校の準備を始めなければならない時期だった。

 宿題は書き初めまで含め全て正月前に終わらせたが、夏夜には一つだけ意図的に避けているものがあった。
 一成からの連絡である。

 以前はうざったがれるほど自分から送っていたメールはすっかりなりを潜め、電池がなくなっても気づかないフリをしてそのままにしておいた。

 つい先ほど、母に言われしぶしぶ充電器に突っ込んでいた携帯が復活したところで。
 夏夜が見るのを待っていたかのように、青いランプがすぐさま点滅し始めた。

 もちろん一成からの電話やメールだとは限らない。

 だがもしもそうで、更に彼女の話なんてされた場合――夏夜はどんな顔をして、どんな声で一成に返事をすれば良いのだろう。

 ネガティブな考えが頭を支配し、暗い森の中に一人で放り出されたような気持ちになる。

「少しくらい連絡が遅くなっても許されるのはイイ女の特権だけれど、友人関係には当てはまらないわ。とりあえず誰からかの確認だけしたら?」

 さも簡単なことのように言い放ち、またページを一枚めくって。
 紙の擦れる音がした。

「一成くんからだったら?」
「今は話したくないんでしょ。黙って携帯を閉じれば良いじゃない」
「そんな」
「ええ、見たら最後連絡せずにはいられなくなるのよね。一成第一主義だもの」

 母の言う通りだった。
 いくら話さないと決めても一成の名前を見たとたんに夏夜の信念は簡単に捻じ曲がるだろう、自分でも思っている。

 だから極力、携帯を見たくない。

 唇を噛んで黙り込むと、ふーっと力が抜けたように息を漏らしてそれから夏夜を安心させるごとく微笑まれる。

 三十半ばを越えたはずだが未だに街を歩くとナンパされる、年齢を感じさせない美しさを持つひと。
 親子でなく姉妹と間違われることもしばしばだ。

「それをダメなんて言わないわ。ただ夏夜、貴女は一成以外の何かを持ちなさい。今の状態を見ていると不安になる」

 呆れながら母を見返す。

 この時の夏夜にはまだ、母の危惧が何を指しているのか、何を思ってそう言っているのか全然分からなかった。

「不安って……。趣味ならちゃんとあるよ。読書とかお琴、それから」

 一つ、二つと指折り数えた。
 けれど三つ目が出てこない、確かにあるはずなのに。

 お料理? でもあれは母に教えられたから身についただけで。
 百人一首? でも競技で通用するほど速くないし、よく遊ぶけど大して好きでもない。

 しらみ潰しに考えていき、やがて夏夜は愕然とした。

「他には?」

 促すように母が訊いてくる。

「他には――」

 ない、かも。呟く前に携帯が鳴った。
 一成専用の着信音だった。


 手の平の中の携帯を呆然と見つめたまま、取ろうとしない夏夜に笑みを含んだ声が聞こえてきた。

「出ないの?」
「出る、けど」

 曲は数年前に流行ったバラード、このサビが終わるまで出なければ話さないで済む。

 けれど後回しにしているだけだってことくらい分かっていたから、夏夜は留守電に切り替わる直前になって通話ボタンを押した。

 ソファから立ち上がり、耳元に携帯を押し付けて自室へと向かう。

「……夏夜です」

 ドアを開けてパウダービーズのソファに寝そべる。

 屋敷のシンプルかつ全体的に可愛らしい雰囲気の部屋と違い、自室は白や焦げ茶などの落ち着いた色で統一されていた。

 そのくせ乙女チック感たっぷりの卓上三面鏡やりんごの形をした目覚まし時計などが並んでいて妙にアンバランス。

 ベッドの上に置かれたテディベアは一成から貰ったものだったが、今はぎゅっと抱きしめるよりもグーで軽く小突きたい。

『何で出ないんだ。携帯持たせた意味がないじゃないか』

 電話で聞く限り、一成は怒っていた。
 どこかの店に入っているのかクラシック――パッヘルベル『カノン』のBGMが聞こえ、微かに他の人の声も混じっている。

 そりゃあ出ないのは悪いと思うけど、夏夜は小声で呟く。
 ならば家の固定電話にかければ良いという反論ははなから持っていなかった。

「電池なくなってたんだもん」
『は?』
「電池っ、なくなってたの! 全然見てなかったしさっき充電が終わったばっかなの!」

 嘘じゃない、でも本当でもない。
 声が大きくなったのはそれが言い訳だからだ。

『良かった。避けられたのかと思った』

(……そんな風に言うなんて、ずるいよ)

 本人は意図していないのだろうが、まるで一成が自分のことを好きみたいに聞こえる。
 一成は天然タラシなのだ、夏夜を誤解させるような口振りは昔からよくあった。

 勘違いして後で痛い目を見るのは自分、何度も言い聞かせて勝手にドキドキする心を落ち着かせる。

 夏夜は体の向きを横から仰向けに替え、クリーム色の天井を見つめた。

「一成くんから電話してくるって珍しいね。何で?」
『彼女が、お前に会いたいって言うんだけど』

 反芻してやっと意味をつかめた。

 かのじょ、カノジョ。
 英語では女の人の三人称単数形でも日本語なら一般的に恋人を示す言葉。

 この場合は、前のお茶会で言っていた恋人が一成の従妹である夏夜に会いたいと言っている……ってことで。

「どういうこと、それ……?」
『特に用事がないなら、今から出てこれないか』

 反射的に起き上がった。

 要するに現在一成は恋人とのデート中で、そこに夏夜を呼びつけようとしているらしい。
 信じられない。そうお願いする彼女もわがままを叶えてあげようとする一成も。

 夏夜は何でも言うことを聞くペットではないのに。

「一成くんは横暴だよ。夏夜の気持ち分かってるならそんなこと言えない」
『……悪い』


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あきゅろす。
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