天使と悪魔の境界線【1】
椿さんは美しい方でした。
人形のように整った顔立ち、頬は薄く薔薇色に染まっていて。
なめらかで白く抜けた肌。
白雪姫も裸足で逃げ出すんじゃないかと思います。
ストレートの髪は肩よりも少し下の辺りの長さ、彩りは闇のように暗いぬばたま。
何の文章力もない私ですら、すらすらとこんな言葉が出てくるような……そうです、傾国の美女。
それがぴったりな女性でした。
まさしく、この美貌ならば笑み一つで国を傾けることも難しくないでしょう。
もしや、全くプロフィールを出さない覆面作家となったのもこのせいでしょうか。
きっと幼い頃から犯罪に巻き込まれることが多かったのでしょう。
つい、あまりの可愛さに出来心で誘拐してしまってもおかしくなさそうです。
ただ、椿さん……いえ、先生は十七歳の女の子だったのですけれども。
「こちら、改稿済みの原稿です。お疲れさまでした」
ロビーの一角、周りからは死角になっている部分に私達は向き合っていました。
ばれないことが第一にある先生らしい選択です。
未だ先生のお宅(=住所)を全く知らない、分からないっていうのもおかしいかもしれませんが、この人相手にはそれも通っちゃうのが困りものです。
十六歳の時点で社長を篭絡させた美貌と、納得させた表現力をお持ちなのです。
一人用のソファに座っている、未だ制服姿の先生はにこりと笑って原稿の束を手渡します。
さらりと揺れる黒髪が綺麗です。
見るからに重そうなそれを受け取って、梓は軽く頷きました。
あ、ちなみに梓というのは私とペアで働いている後輩のことです。
黒髪ロングの和風美人で、中々しっかり者なんですよ。
凄く頼りになっちゃいます。
「OKです。数日後、チェックが終わり次第返却に参ります」
今先生が渡されたのは、三ヶ月前に行われ、桜花社新人大賞の佳作に選ばれた『小夜鳥』の改稿版です。
ですが、一行目を飾る文字はナイチンゲール、という名前に変わっていました。
やっぱりカタカナの方が分かりやすいからでしょうか。
作者名にも変更がありました。
現在は椿、が先生のペンネームです。
本名は香坂奈々さん。
ですが、桜社からデビューする椿先生は個人的なプロフィールを一切出さない――所謂覆面作家となりました。
理由は、と聞くと、編集長は椿先生に「言わなきゃいけないなら、今すぐ止めて他の出版社に行きます」と脅されたそうです。
よく言いますけど、本当に美人が怒ったら怖いんですよ。
今のところ、椿先生の個人詳細を知っているのは私と梓、編集長だけです。
社長でさえも本名は知らないのです。ちょっと優越感があります。
「――では、ペンネームは椿ということで。ところで先生、何でその名前にしようと思ったんです?」
原稿についてはもう終わったので話の種にでもでしょうか、軽い調子で梓が尋ねます。
そういえば、これは私達と編集長、三人の中で不思議に思っていたことでした。
当然、先生の本名とは何の関係もないはずです。
何の理由があるのか。
もしかしたら自分の第二候補の名前だったのかも。様々な憶測が飛び交ったものです。
ところが、ソファに深く座り背凭れに体を預けている椿先生は、ふっとどこを見ているのか分からない、虚ろな目(それもお人形のようでとてもとても美しいのですけれど!)をしてから、にっこり笑って、
「一臣と小夜が、桜の花の下で出会う場面があるでしょう。あれは最初の時点では椿の木近くだったんです。だから、椿。気に入ってしまいましたし、本名ではばれてしまう可能性もありますから」
だそうです。
私と梓はあぁ、と小さく頷きました。納得です。
確かに、あの桜のシーンはとても美しいものでした。
最終候補作品の中ではありがちな設定、と批評されていた感もありましたが、ラストの伏線にもなっていて素敵だったのではないでしょうか。
「もう、この話は終わりにしましょう。すみません、この後用事があるので失礼させて頂きますね」
バッグを手に取り、立ち上がって一礼。
十七という年齢に見合った水色のワンピース、さらりと流れる黒髪。
先生の一つ一つの動作がとても綺麗です。
……いや、見とれてるひまはないのでした。
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