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躑躅の屋敷3



 一度は半身を起こせるまでに回復した十蔵であったが、このところは床に着いてばかりだ。如何せん薬がないために疵が膿んでしまったらしく、熱も下がらない。こういう時に医術の心得のある小助などがいてくれたらと思うが、それは言っても詮のないことだ。伊三には、ただ只管に御仏に祈願してやることしか出来ない。
 疵の手当てをしようと、洗っても血の痕が取れない繃帯を持って歩み寄った伊三に、十蔵は静かな笑みを見せた。身体を抱き起こそうとするその腕をやんわりと押しやった彼は、小さく首を振った。
「どうしたんだ」
 伊三がその意図が掴めずに首を傾げると、十蔵はもういい、と呻くように応える。
「……もういい、って何が」
「何時までも死人に拘らってるんじゃねェってことだ」
「縁起悪いこと言うな。あんたまだ死んでねえだろ」
「死人も同然さねェ。手前のことも分からねェほど耄碌してるとでも思ったのかィ」
 ひゅっ、と十蔵の喉が鳴る。彼の容態が良くならないどころか日に日に悪くなっていることは、素人目にも明らかだった。伊三にさえ解るのだから、当人は言わずもがなだ。
「おめぇは何処へなりと行くがいい。ちゃんと町医者にでもかかりゃア、疵だって癒えるだろう」
「ハ、あんたに心配してもらえる日が来るとは思わなかったぜ」
 目を眇めて揶揄する伊三の言葉に、十蔵はひらりと笑みを見せた。平生のように一蹴されるだろうと踏んでいた伊三は、わずかばかり拍子抜けしたように表情を強張らせる。
「一体どういう風の吹き回しだよ」
「それを聞きたいのは俺の方さね。―――おめぇなんかに、情が移っちまったてなァ、」
 笑えるだろィ、と言って自嘲した十蔵は痛みに顔をしかめながら、おもむろに懐に手を入れた。それから白い包みと小太刀を取り出し、伊三の膝元に押し付ける。
 包みは、細長く折り畳まれた懐紙であった。伊三は怪訝な顔をした。
「……これは、」
「俺の髪さね」
「は、何でそんなもん……」
 訝しむように眉根を寄せた伊三を眺め、十蔵はふつと息を漏らす。笑ったようだった。
「形見のつもりか」
「そうなるかねェ」
「な……んだよ、そりゃあ……、」
 苦虫を噛み潰したように渋い表情をした伊三は、すぐにその懐紙を改めた。よくよく見てみれば、それには血が滲んでいる。今付いたものではなく、明らかに何日も前に付いて乾いたものだった。
「まさか、これを海野に」
「あの人は、最期まで俺のことを受け入れようとはしてくれなかったがねィ」
「一体何処に隠し持っていたんだ」
 疵の手当てのために一度ならず衣服を脱いでいるにもかかわらず、伊三はいま初めてその懐紙を目にした。それが不思議でならなかったが、十蔵は何でもないとばかりに頷く。
「衿の裏に縫い付けてあったからねィ。我ながら、女々しいったらありゃしねェ」
 十蔵の言葉は、伊三の胸中に小さなつかえを残した。
「……なあ、これ、本当にあんたのものなのか?」
「他に誰のだってェんだ。―――紛れも無く、俺の髪さね」
 強い口調だった。そうか、と頷いた伊三はしかし胸中で、確固たる答えを見出だしていた。
 突き返された己の髪を、衣服の裏地に縫い留めてまで後生大事に持ち歩くことなど、普通はしない。だとすればこの髪は、十蔵が決して棄てることの出来ない人間のものに相違なかろう。
「それ、を、殿の墓前に供えてやってくれねェか」
「良いのか。―――大切な、もんなんだろう」
「……殿と、共に死ぬこと相叶わなかったからねィ」
 あちらへ持って行ってやってほしいのさ。
 そう言って懐紙を持つ伊三の手を握った十蔵の双眸は、ひどく真摯な色を宿していた。きっと、こういう瞳はこれまで見たことがなかった。その眼力の強さにぎくりと身を竦めた伊三は、苦悶の表情を見せて俯く。
「だが、俺が此処を離れたら、あんたは」
「潮時さねィ。だから、それで一思いに」
 十蔵は伊三の膝元に無造作に置かれた小太刀を顎でしゃくった。
「あっさりと言ってくれるじゃねえか、」
「仕方ないだろィ。おめぇしかいねェんだから」
 十蔵は絶えず笑みを崩さない。それは、この屋敷に来て以来ずっとだ。生き残ってしまった己を嗤い、これ以上如何ともし難い身体を嗤い、そして、何もかも知っていながらそれでも甲斐甲斐しい世話をやめようとしない伊三を嗤っている。それは、伊三には辛いことである。
「なァ、」
 十蔵が伊三の手を握る自身の手に力を込める。伊三は空いているもう一方を添えて、言葉の続きを促した。
「殿のお言葉を覚えているかィ。―――この戦は、」
「『我等にとりて生きるための戦である』」
「ならば、この戦に負けた俺達は死ななけりゃアならねェ」
「そんなこと、」
「そも、主君を亡くした家臣に生きる意味なんて有るはずがねぇさなァ」
 呟く十蔵の言葉は、自身に言い聞かせているようだった。
「とっとと追腹切りゃア良かったんだ。
……だが、そりゃアもののふの仕事さね。おめぇは幸か不幸か、坊主だ。主君がいなけりゃ役立たずのもののふじゃねェ。生きて、やれることがある」
 己の生を諦めた男の片笑みはひどくぎこちない。慣れない癖に他人に優しさをかけようとするからだ。
「俺は、そういうことを言ってやってンのさ」
「だからあんたを殺せってのか……俺は、あんたを」
「生臭坊主の有り難ェ慈悲なんぞ要らねぇなア。
……おめぇのそれは、恋情じゃねェ。いい加減気付いたらどうなんだィ」
 言葉に反して、十蔵の表情はひたすらに穏やかである。憐愍さえ滲むその青い顔を、伊三は直視出来ずにいた。
「おめぇの言った通り、殿はきっと俺達の存命を望んでくださろう。……だからこそ、此処で二人共倒れしようもんなら、俺は殿に顔向け出来ねぇ。そのくらい、おめぇにも分かるだろィ」
 戦場で十蔵を見つけた時から、遅かれ早かれ、この日が来ることは分かっていた。それゆえ諭すように、慰めるように、努めて落とされた声音を聴き続けるのは、伊三には堪え難いことである。
 眉根を絞り口惜しさを隠さない伊三に、十蔵はふつと息をついた。それから、再び伊三の手に握られた懐紙に目を落とす。その双眸は、この世にはない魂を慈しむ。
「―――頼む、」
 伊三は詰まった咽を無理矢理こじ開けて息を吸い込んだ。床の脇差を手に取り抜くと、十蔵が安堵したように口角を持ち上げる。
「頼む」
 軽く両腕を開いた男の痩せ細った肢体を抱き、息を吐き出す勢いと共に鍔元まで一度に刺し込んだ。
 苦しげな吐息以外は、呻き声の一つも聞こえない。急激に力が抜け重くなってゆくその痩躯を支え、伊三は瞼をきつく閉じた。
「……三好の」
 十蔵の掠れた声が伊三の紅潮した耳元で囁く。
「おめぇと一緒ってのも、存外、悪くなかったねィ。……驚いた、ことに、なァ」
「なんだよ……この期に及んで、そんなこと聞きたくねぇぞ」
「……ふ、冥途の、土産にでもして、おけば、いいさねェ……」
 十蔵がにやりと笑う気配がした。あの、小憎たらしい顔で。

 伊三はそろそろと十蔵の身体を褥に横たえた。血の気の引いた顔は、人形のようである。その足で庭に降り、皐月躑躅を摘み取って胴体の上に散らしてやると、意図せずかつて戦の折に十蔵が着用していた緋縅の具足を模しているかのように見えた。
 少しだけ嗤った伊三は、暫く縁側で躑躅を眺めた後、読経をあげた。

 その晩、朱い皐月躑躅の咲き乱れる屋敷を去った伊三の行方は、杳として知れない。







(了)


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