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躑躅の屋敷*1


 今年も躑躅の季節がきた。伊三は朝の勤めを行いながら、庭を眺めて思う。手入れをしていないにもかかわらず美しく咲き誇るその花々は、往時の屋敷主の姿を偲ばせた。その主も最早この世にいないとなれば、時の流れとは、げに忙しないものである。
「手元が留守になってやがるぜィ」
 部屋の隅から聞こえてきた声に、伊三の口から紡がれていた読経が途絶える。確かに、木魚を叩く右手は、彼の考えとは無関係に単調な動きを続けていた。
「いつまでも寝ぼけてるんじゃねぇよ。だらしがないねィ」
 自由にならない身体を横たえたまま呆れたような声で皮肉を言う十蔵は、十数日振りに目を覚ました。伊三が慌てたようにその傍へ歩み寄るのを横目に、彼は薄く笑う。
「此処は何処でェ」
「お屋敷だ、真田の庄の」
「おやまあ、随分と遥々きたものだ」
「ああ、」
 戦地で斃れた十蔵を抱えた伊三に、行く宛などはなかった。落城した大坂城下では徳川の兵たちによる豊臣の残党狩りが始まり、九度山に徳川の手が回ることは時間の問題だろうと思えた。脳裏に過ぎったのは上田の城であったが、そこには徳川に味方した主君の兄、信之がいる。よもや殺されることはないだろうが、大恩ある主君の兄に、迷惑をかけることは出来なかった。途方に暮れた伊三の目に飛び込んできた躑躅が、光明を与えたのである。
 上田に城が築かれる前に主君たちが居住していた館は、今は誰も住んではいない。秘かに疵を癒すにはこれ以上ない場所に思えた。
 かくして、意識の戻らぬ十蔵を背負いながら、自らも手負いの伊三は十日以上かけてこの館にたどり着いたのである。
「あのな、筧……その、殿のことだが……、」
 言葉をつかえさせながら紡ぐ伊三に、十蔵は静かに瞑目した。瞬間、この男は何もかも悟っているに違いない、と伊三は合点する。もっと取り乱すと思ったが、十蔵の表情は動かない。
「なァ、三好の」
「なんだ、」
 十蔵の目の下には黒々とした隈が縁取られている。その体力の衰えは明らかだった。
「何故、俺を助けた」
 切れ長の目が、力無く伊三を見据える。その言葉に、彼の想いのすべてが含まれているのだろう。
 伊三は返す言葉もなく、息を詰めた。


   ***


 主君を喪い、同士を喪った伊三は、よもやこれまでかと一度は腹を括った。死ぬならば最早不殺生を守る理由も無いと敵兵を幾人も殺めた。己の力が底をついたならば、腹を斬って果てる積もりだった。そのように戦場を彷徨い歩いていた伊三が十蔵を見付けることが出来たのは或いは奇跡であったのかもしれない。血に塗れた十蔵は、微かな息をしているばかりであった。
 土気色の顔をした十蔵がその場で目を覚ましていたならば、恐らく楽になることを望んだろう。けれども伊三にその手助けは出来なかった。先程まで幾人もの命を奪っていたと言うのに、たった一人の瀕死の男を楽にしてやることが、堪え難い所業のように思えた。
 それは、仏の慈悲の心がゆえではない。伊三は己の内に留め続けていた、たった一つの想いを、その時はっきりと自覚したのである。その想いゆえに彼には、十蔵を死なせてやることも、見捨てることも出来なかった。


   ***


 真田の庄ならば、或いは他に生き残った同志が落ち延びてくるやもしれぬと踏んでいたが、その気配は微塵もなかった。里の者さえ近寄らぬこの館では、淡紅色の躑躅のみが以前と変わらぬ彩りを保っている。
 十蔵の疵はなかなか癒えないが、漸く半身を起こせるまでには回復していた。筵の上から動かない彼は、毎日飽きもせず庭の躑躅ばかりを見つめている。この男が花を好むという話は聞いたことがない。なれば何か思うことがあるのだろう。元来会話を楽しむといった間柄ではない。伊三は食事の時や用がある時以外は殆ど十蔵と言葉を交わすことはなかった。
 その数少ない機会が、十蔵の繃帯を替えてやる時である。
「おめぇの疵は、もう良いのかィ」
 ぽつりとこぼされた問いに、伊三は相好を崩して応えた。十蔵から声を掛けられることは昔からそう多くはなかっただけに、嬉しい。
「まあまあ、だな。薬がねぇから治りも遅い」
「こう山奥じゃア、そうそう薬売りもこねえだろうかねィ」
「まったくだ。―――あんたにも薬がありゃちっとは楽なんだろうが、」
「おめぇの馬鹿とお人よしは死んでも治らないようだねィ」
 声音を落とす伊三に、十蔵は嘲りを与える。しかし、言葉に反してその声は伊三がこれまで聞いたことが無いほど穏やかだった。
「人の心配をしている場合じゃねェだろう」
「そういう場合だよ」
「……伊の字、」
 ぎこちなく身体の向きを変えようと、十蔵が動く。それを輔けた伊三の瞳を覗き込む彼の頬は肉が落ち、ひどく老け込んで見えた。
「おめぇ、何故俺を見捨てなかった」
 それはこの数日のうち、幾度となく十蔵が口にした言葉だった。伊三はその度に語尾を濁してきていたが、今日ばかりは十蔵の瞳がそれを赦しそうにもなかった。
「……あんたは死にたがるだろうと分かっていた。あんたの望みを叶えてやりたいとも思った」
 十蔵が生きる理由だと口にして止まなかった人間は、最早この世にはいない。その絶望を感じさせたくないと思ったのは事実だ。
「だが、俺はどうしてもあんたを死なせたくなかった」
 言い、伊三は小さく詫びた。己の我が儘で十蔵の信念を曲げさせてしまったのは、許されてはならないことであるように思えたのだ。
「……人の心配をしている場合じゃねェだろう、」
 十蔵は僅か驚いたように目を見張った後、先程の言葉をもう一度繰り返した。
「ひでぇ顔してるねィ」
 呆れたように息をつく十蔵の口元は、緩んでいる。その表情に伊三は安堵の声を漏らした。
「……悪いかよ、」
 怨まれても当然だと思っていた。生き恥を晒せと言うことは、武士にとっては拷問に等しい。
 しかし十蔵は己が生き延びたことを悔いながらも、それ以上の抗いを見せることはしなかった。例えそれが本心ではないしても、だ。

「そうか、おめェ、俺を慕っていやがるんだねィ」
 十蔵は独り合点したように嘯いて、にんまりと意地の悪い笑みを見せた。
「……そういうことは、自分で言うもんじゃねぇぞ」
「否定出来ねぇだろう」
「聞けよ、人の話を」
 息をついた伊三の言葉に、二人はどちらともなく笑声を漏らす。
 その笑顔を見ていたのは唯一、躑躅の花々のみであった。






躑躅の屋敷
(たとえそれが、束の間のしあわせだとしても)









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