5000hit御礼SS 沙羅(陰陽師)
土御門の辺りにある安倍晴明の屋敷で、晴明と源博雅は午後からゆるゆると酒を飲んでいる。
博雅が晴明の屋敷を訪れたのは昼過ぎ。帝の命で出掛ける用事ができ一月ほど屋敷を留守にしたため、帰宅の報告をしに手土産を持ち現れたのだ。
博雅がいつも晴明のいる縁側を覗くと、晴明が背を向け自分の腕を枕にして横になっており、簀の子の上には既に盃が二つ盆に伏せられ綺麗に並べてある。
「来たな」
博雅に気付いたのか、背を向けたまま晴明が呟いた。
「よく、俺が来るのが解ったな」
「一条の戻橋辺りで、『晴明が居るといいが』と言ったろう」
「おぉ、橋の精がお前に伝えてくれたかよ。宜しく伝えてくれ」
「あぁ」
ぼりぼりと頭を掻き、ようやく身体を起こす晴明。
「蜜虫」
晴明が座敷の奥に声を掛けると、蜜虫が音もなく酒の入った瓶子を持って現れた。
「飲むだろう、博雅」
「飲む。肴は持ってきた」
そう言って魚の干物を晴明に差し出す博雅。
……そして、今に至る。
お互い、口数はそう多い方ではない。ただ、ゆるゆると秋の庭を眺めながら、酒を飲む。
「そうだ博雅。沙羅殿は息災か」
ふいに思い立ったように晴明が尋ねる。
沙羅とは、博雅が帝から賜った秦琵琶に宿る精霊で、天竺の天女のような姿をした女性。
元は帝の物であったが、博雅が借り受けた時に語りかけられた琵琶の精霊が博雅に惚れ、帝の元へ帰るのを拒んで博雅以外が奏でても音が鳴らなくなるようになり、帝の元から博雅の元へと下がったのだ。
「あぁ。夜に奏でると姿を見せてくれる」
「久方ぶりに、お前の琵琶の音が聴きたくなった。今夜は名月になろうし、お前の屋敷へ行ってもよいか」
「おぉ。ぜひとも。もう一月以上も琵琶に触れておらんからな。沙羅殿も喜ぶ。ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
日も暮れかける頃、二人は博雅の屋敷へ向かった。
舎人も連れず、牛車にも乗らず、徒歩である。
本来なら徒歩で出掛けるような身分ではなく、牛車に乗り幾人かの舎人を供に出掛けるものだが、この二人はそのような事は全く気にせず、徒歩で行ける所には徒歩で行く。
少し酔った身体にはかえって心地良いとばかりに、秋の風を受けながら歩いて行った。
月もすっかり昇る頃。
−嫋
―嫋
静かに、琵琶の音が響く。
空には、見事な望月。
「これほど趣のある事は、そうあるまいよ。なぁ、晴明」
酒を飲む晴明の横で、博雅は思わず琵琶を奏でる手を止め感嘆の声を上げる。
再び琵琶を手にし、楽の才に秀で実直なこの男が感動のあまり涙を流した時、沙羅は何処からともなく現れた。
一礼すると、異国の舞を舞う沙羅。
嫋嫋と響く琵琶の音に合わせ、流れるような舞を舞う姿は、天女のように美しい。
博雅が一曲奏で終わると、沙羅は再び一礼し、一歩後ろへ下がる。
晴明は、舞を終えた彼女に一言二言異国の言葉で語りかけた。
「良い舞であったと言ったのさ」
何と言ったのか気になったが、この趣のある余韻を壊してはならぬと口をつぐんでいた博雅の心を読んだように、晴明が口にする。
「ナウマクサマンダ ボダナン サラソバティエィ ソワカ」
沙羅は消え入るような声でそう呟くと、博雅に向かって合掌して独特の礼をし、消えていった。
それを聞き、笑い出す晴明。
「なんだ?何があったのだ?」
訳の解らぬ博雅は、晴明を見やる。
「沙羅殿が唱えていったもの、あれは弁才天の真言ぞ」
「弁才天の真言?」
「あぁ。楽の才のあるお前を、弁才天のように崇めていったのよ」
「なんと…」
驚きのあまり、二の句のつげない博雅。
「お前も隅におけぬな、博雅。女にここまで懸想されるとは」
「か、からかうな」
顔を赤くしてそっぽを向く博雅を、晴明は楽しそうに眺めていた。
title:ハマヒルガオ様
◇博雅が帝から賜った秦琵琶は、原作を見ると正式には阮咸(げんかん)というそうです。一度、見てみたい…
◇弁才天は、日本では一般的には弁財天と書きますが、真言の本を見ると弁才天と書くようで、そちらの記述を参考にしました
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