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It recalled it4






 時計の秒針を戻せば、帰りたい過去に帰れる。そんな有り得ない夢を見てしまうほど、弟が自分を思い出してくれることを望んで止まなかった。
焦りは禁物だと、長年の経験から十分に分かっている。自分の老獪で、冷静な性格も。なのに、殊弟に関してだけは、落ち着いて考えることがどうしてもできない。
あのとき、あのおぞましい過去に戻って、その場から弟を連れ去ってしまいたくでどうしようもなかった。どんなに望んだとしても、それが叶わないことだと分かっているが。
例え神だとて、到底無理な話だろう。そもそも、この世界に神など存在しないのだ。少なくとも自分は、無神教者である。バンパイアが神を崇めるというのもおかしい話だと言われるかもしれないが、実際にはちらほらと仲間内にも宗教者がいる。
信じてはいないけれども、神とは万能なものだと自分も思う。何と言っても、姿もないくせして人を惑わし、あまつ説法を駆使して、人間を操り殺したりするのだから。
偶然などこの世にない、現実に起こることはすべて必然で、それ以外の奇跡は神の御心のままである、と囁かれているが、奇跡こそ偶然だと、自分は思うのだ。
何故なら、神にでも時間は戻せないのだから。

過去を振り返るには、そして弟が記憶を取り戻すには、様々な偶然の悪戯と、自分の努力でしか成り得ない。
だから、自分の血を弟に渡した飲み物に混ぜて、手っ取り早くその味を思い出させようとしたのだが、その後結局、弟に目立った変化は見られなかった。
そのまま飲まなかったのか、それとも気付かずに飲み干したのか。
どちらにしろ、あの方法は失敗したということだ。
次はもっと、直接弟のすべてに響くような手段を取らなければ。

あの存在が、どうしても自分には必要なのだ。
弟をこの手に取り戻せば、ずっと感じていたこの喪失感は、消えてなくなると心から思う。

早く、早く取り戻したい。触れたい。愛したい。離れていた間の、長い時間を埋めるように。

弟が欲しい。早く、早く、





















トン、トン、トン、
あの仄暗いアパートの階段を、コース最後の配達のために上がっていく。
昨日、あの男から貰った気味の悪い飲み物のせいで、まだ気分が悪い。
外見に似合わず大食漢と評される自分だが、さすがに昨日は、一日中ろくに食べることができなかった。
一応、心配したらしいサンジが寝る前に簡単なスープをこしらえてくれたのだが、ほんの少ししか飲むことができず、随分もったいのないことをしてしまった。
食べ物を無駄にすることに対しては、とても心が痛む。孤児院にいたときは、先生たちは何も言わなかったけれど生活がかつかつだったことを何となく肌で感じていたので、与えられるものはすべて大切に消費していた。だから、こういう事態は本当に嫌な気分に陥る。

これから新聞を届けるために訪れる部屋の住人は、一体どういうつもりで自分にあんな物を渡したのだろうか。
とても正気の沙汰とは思えない。生き物の血を、飲み物に混ぜるだなんて。

今朝、出勤した自分の顔を見て驚いた事務長が、「顔色がとても悪いけど、どうしたの?」と尋ねてきてくれた。
なので、昨日の出来事を正直に話すと、配達コースを変えてくれると申し出てくれたのだ。
また一から道順を覚えるのは大変かもしれないが、あのアパートへ赴くことにかなりのプレッシャーを感じていたので、ルフィは喜んでそれを承諾した。
ルフィに割り当てられていたコースには、この道数十年のベテランの男がついてくれるらしい。
今日まではとりあえず今までと同じ道順で新聞を配り歩くことになったが、それでも心が随分と軽くなった。
よかった。これでもう二度と、あの男に関わることがなくなる。
最初はまともな人間かと思ったけれど、再び顔を合わせたときの言動が明らかにおかしかったし、好んで出くわしたい相手ではない。
今日は、どうか会いませんように。
そう願いながら踊り場のその部屋に辿り着いたけれど、願望というのは大概外れるものである。

いた。
部屋の扉の前に、昨日と同じようにあの男が、背中を預けて佇んでいた。
今日も今日とて、黒めの上着を羽織り、全体的に薄暗い印象を纏っている。
うっそりとした笑顔が、雀斑の散った、整ったその顔に張り付いていた。
顔色が悪い。血の気がまったく感じられないような、病人のような顔色だ。
それは、この日の光の差し込まない建物のせいでも、年中どんよりとした寒々しいこの国の気候のせいでも、多分ないだろう。
何故か何となく、ルフィはそう思った。


「よう、おはよう」


これまた昨日と同じように、朝の挨拶を受ける。
ルフィは一瞬言葉に詰まったが、小さく頭を下げて、男とは目を合わせないまま、「おはよう、ございます、」と返事をした。

「昨日は、」
「…え?」
「昨日は、飲んでくれたか?俺がやった、あれ」

信じられない。
この質問、これは考えるでもなく、確信犯だという表れではないか。
ルフィはあえて嫌な表情をつくらなかったが、それには何も答えることはせず、男の体を避けるようにしてポストに新聞を突っ込み、それじゃ、とそそくさとその場を去ろうとした。
なんて男だ。はっきり言って、異常だ。
浮かべる笑顔がどこまでも爽やかで、いやらしさの兆しも見られないということが、逆に酷く恐ろしい。
男が何を考えているのか、まったく分からなかった。しかし、これだけは言える。嫌な目だ。
この男は、何だかとても、とても嫌な目をしている。
まるで、獰猛な獣のような、茂みに潜んで、獲物を虎視眈々と狙っている血の気の多い、そんな野蛮な目だった。

この場から一刻も早く去りたいと、逸る気持ちで震える手で新聞を投函し、さっさと帰ろうと踵を返した。
どうせ、今日限りでここにももう来ることはない。客だからと、愛想を振りまくことはもうないのだ。
元より、契約を切られたとしても、それはそれで構わない。こんなところに誰も訪れることなど、できればない方がいいのだから。

ルフィが男を無視してアパートを出て行こうとすると、ぐい、と腕を捕えられ、引き止められた。
内心慄いて、思わず僅かに肩が上がる。
服の上からでも分かるほど、男の手は冷たかった。

「な、何……」
「やっぱり、飲んでいないのか?」
「………」
「…どうして…何が気に入らなかった?兄ちゃんは、お前のために、」
「……あ、んなの、飲める訳がねぇだろ。それより離してくれよ、まだ配達が残ってるんだ」
「んー?はは、おいルフィ、何でそんな嘘つくんだよ。俺の家で配達は終わりだろ?この後事務所に戻っても、家に帰るだけじゃねぇか。ゆっくりしてけよ。何も問題はねぇ筈だし」

悪寒が走った。何故そんなことを知っている。
血液入りの飲み物といい、自分と職場の人間だけにしか分からないコースの道順の把握といい、ルフィは男が心底恐ろしくなり、振り払うようにして自分の腕を掴んでいる男の手を払った。
ひっそりと、それでも確実に、徐々に鼓動は大きくなっていく。
自分の体が、どくどくと脈打っているのを、やけに鮮明に感じた。
きっと、尋常ではない表情を自分は浮かべているだろうと思うのに、それと対峙している男は尚、にこやかな顔を崩すことはなかった。

「……あんた、」
「………」
「…あんた、何がしたいんだよ…。意味分かんねぇよ!あんな、あんな異常なモン、俺に渡したりするし…!」
「……ルフィ」
「おい、やめろ、寄んな!こっちに来んな!俺はもう、ここには来ねぇから!何であんたが俺のこと知ってるのかなんて知らねぇけど、もう俺に関わるなよ!俺は…!」


あんたの弟なんかじゃねぇ!
そう捨て台詞に叫ぼうとしたルフィの背を向けた体に、男が音もなく張り付いた。
喉を冷たい掌で覆われ、首筋辺りに柔らかい、とても冷えた感触がふ、と触れる。

反射的に渾身の力をもってして逃げ、首筋を押さえて驚愕の眼差しで男を見る。
男は、舌舐めずりをしながらこちらを眺めていた。
相変わらずギラギラとした瞳をたたえ、薄暗がりに相応しい、ひっそりとした笑みを浮かべている。

何だ、何なんだこの男は。
今、何をした?
嫌だ、もう、この場で顔を合わせていたくない!


「ルフィ…兄ちゃんに“あんた”はないだろう?」
「………」
「あれがもし気に入らなかったってんなら、もっと飲みやすいように、今度は食い物に混ぜてみた。よかったらうちに寄ってって食ってけよ。そうしたら、きっと思い出すと思うんだ。思い出してくれると、思うんだ。俺とお前が昔、どんなことに巻き込まれたのか、」
「………嫌だ、」
「さぁ、来いよ。腹減ってるんだろう?お前家に帰ったら、すぐにあの金髪に飯をねだるしな…。遠慮すんな、兄ちゃんお前のために、部屋を綺麗に掃除したんだ。俺、滅多に掃除なんかしねぇのに。はは、なぁウケるだろ?」
「……嫌だ、来んな…!」
「ルフィ…ちょっと飯を食ってほしいだけだから、」


再び自分の腕を掴もうとした手を、払い落して駆け出した。


「来るなって言ってるだろ!!」


怖い、怖い、何だ、何だあいつ、何なんだあいつ!
兄ちゃん?昔?俺はあんな奴、知らない。俺に兄弟なんかいない!

男が追いかけてくるような気がして急いで階段を駆け下り、転がり出るようにアパートから抜け出した。

もう二度と来ることはないだろうが、とんでもない恐怖だった。おぞましい。寒気がする。

エントランスを飛び出すとき、ちょうど中へと入ってこようとした人間にぶつかりそうになったが、適当に謝罪を述べ、そのまま全力疾走した。
ここまで生きている人間を恐ろしいと思ったのは、初めてだ。
何だか、異様なまでの雰囲気だった。
思い出せ、だと?

仮にあの男について何かを忘れているのだとしても、そんなことは思い出したくもない。
死んでも願い下げだ。

ルフィはひたすら、夜が明けても暗い街並みを、振り返ることなく走り抜けた。


























弟が駆け下りていった階段を呆然と見つめていると、少年と入れ違うようにして、マルコがエースの元にやってきた。
最初、眠たそうな目を不審そうに階下に向けていた青年は、自室の前に佇むエースを見遣ると、途端に合点がいったような、納得したという表情をする。
マルコは一言、「そういうことだったのかよぃ」と呟いて、エースの目前までゆっくりと歩み寄ってきた。

「…またマルコかよ。それで今日は、何の用なんだ?」

弟に食事の誘いを拒まれた苛立ちも手伝って、エースは普段よりも一際低い声で、相手を睨みながら言う。
マルコはぽりぽりと指で顎を掻きながら、つい今し方自分が登ってきた階段に視線をやり、んん、とくぐもった相槌を打った。

「さっき飛び出して行った坊主は、新聞配達の奴だろぃ?お前が最近取り始めたっていう、新聞を配ってる」
「…そうだけど、それが何だよ」
「いんや、俺も新聞が読みたくてなぃ、お前が読んだら、回してもらおうと思って来てみたんだぃ。…しかしそうか、そういう出会いだったのか…」
「?、何ぶつぶつ言ってんだ」

新聞な、新聞、と不精不精に呟いて、さっき弟に投函してもらったばかりの新聞を、一族の長兄に渡す。
元々、弟と繋がりを作りたかっただけの目的で取り始めたので、新聞自体に目を通してはいないのだ。
処理するのが面倒だったし、請け負ってくれるのならちょうどよかった。

マルコはエースから新聞を受け取ると、やけに真剣な目をして、「お前、思い出したのかぃ?」と言う。
何でお前が、という疑問もあったが、自分がマルコとの過去の関わりを忘れているだけなのかもしれないと思い直し、ああ、と頷いた。
何と言っても、自分がどのようにして今の仲間たちと出会ったのか、それすら覚えていないのだから。

「何だ、その様子じゃ知ってたのかマルコ。俺に、弟がいること」
「……弟?」
「さっき、飛び出してったあいつさ。俺の、生き別れになっていた弟だ。昔っから強情なところはあったが、どうも最近それに、磨きがかかってるみてぇでな…なかなか思い出そうとしやがらねぇ。さっさとこっち側に来た方が、あいつにとっても楽だってのに…」
「…エース、」
「まぁ、そんなところも可愛いんだけどよ。でも、早いに越したこたぁねぇだろ?」
「エース」


お前さん、何言ってんだよぃ。
マルコが神妙な面持ちでそう言うが、エースは気にせずに話を進めていく。


「何って、お前も知ってんじゃねぇのか?あいつ、ルフィは俺の、ずっと離れ離れになってた弟なんだ。一族の血を飲んじまったせいで、人間の枠から逸脱してる」
「……だからエース、お前、何を、」
「だから、そのままじゃ可哀想だから、俺がこっち側に連れてきてやるんだ」


それが、弟にとっても幸せな筈なんだ。

恍惚と言うエースに、マルコは眉間に深く皺を刻んで小さく溜め息をついた。

このまま放置していたら間違いなく、やはりまずいことになる。
先日、ジョズとの会話で「このまま少し、様子を見てみよう」と結論が出ていたが、この状況でそんな悠長なことはしていられないと、親父亡き今一族を守っていかなければならない男は、思った。


「エース…お前は、何か勘違いをしてるよぃ」


少年のことで頭がいっぱいになっているエースには聞こえなかっただろうが、マルコはできれば何も起こらず、このままことが流れてほしい、と願いを込めて口にした。
しかし、おそらくそれは無理だろう。現実は、悲しいかな不条理なことばかり起きるものである。

せめて、被害が広がらないようにしなければ。
マルコは静かにそう誓いながら、手にしていた新聞をくしゃり、と握り締めた。




















































何か特に狙ってないのに、マルコで締めることがやたら多いシリーズと化してしまってますね…。いや別に、それで不満はないのだけれど。←

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