story 涙花―ルイバナ―2 森林の中に佇んでいる、一軒の家屋。紅の瞳に映ったものはそれだ。特に家屋自体はアレクセイにとって不思議では無いはず、しかし彼は怪訝そうに眉を潜める。 「あれが、君の?」 わかりきっていることを、敢えて聞く。問われた事に鴉も眉を潜め、当たり前でしょと言わんばかりの顔をした。 「家だわね」 肯定の言葉を聞き、再び家屋を眺めてみる。大きな屋敷ではあった。木々に囲まれながらも、空間が程よく使われている。外装は少々古いものであったが、それにしても二人だけが住むにはあまりにも大きい。召使いがいるとあれば話は別だが、そのような雰囲気でもない。 思考を巡らせながらも、彼は軽く百人は住めるであろうこの屋敷に、鴉に案内されるがまま踏み入った。 「…姉ちゃんは滅多に外に出ないのよねぇ」 入口の扉を前に、鴉は手をかけたまま固まった。不振に思い眉根を寄せたアレクセイに背を向けている彼は、不機嫌そうに歯を見せ唸る。彼に聞こえない、小さな小さな声で。 「どうした、震えて」 唸っているのが、震えているように映ったらしい。鴉は唇を尖らせ、彼の方へ振り返った。 成人しているはずのこの男は、頬を膨らませるわ、上目使いで―身長差ゆえ仕方ないのだが―睨んでくるわ、どうもしつけがなっていない。 「…大将にはわかんないわよ」 「大、将?」 だがそんな男もいれば、四十二がてらにきょとんとする、こんな男もいるわけで。少し離れて二人を見れば男達のシュールな光景に映るのだが、本人達はいたって真面目である。 「旦那って呼び名よか、あってるかなーってね。…嫌?」 悪戯にウインクして肩を竦める鴉に対し、アレクセイは肩を震わせて笑いを堪えた。この場が人様の家の前でなければ、声を上げて大いに笑い飛ばしたことだろうに。 「…、可愛らしい」 込み上げる笑いを必死に抑えて、ようやく放った言葉がこれだ。少々複雑な顔をしながらも、鴉は誤魔化すように頭を掻いた。 そのまま視線を合わせず、ぼそりと呟く。 「可愛い嬢ちゃん達に言ってやりなよ、そんな台詞」 言い終わるか否か。 ボサボサな黒髪を、アレクセイの手が更にくしゃくしゃに撫でる。笑いを堪えた為に涙が滲んでいるが、目は慈しみに満ちていた。翡翠の瞳には、確かにそれが捕えられていて。 それは、扉を開けることでしか、誤魔化せない程に純粋な視線であったのだ。 「な、何なのよ全く…。姉ちゃー」 ガラ、と軽快な音をたてて開いた扉の先へ向け、鴉が声をかけた直後。 その横を、一迅の風が過ぎ去っていった。一瞬大きく肩を上げ悲鳴を上げ、鴉は情けなく床に座りこむ。対照的にアレクセイは驚きすらしなかった。アレクセイは、二本の指でその風を「挟んで」いたのである。 改めて見れば、光沢の美しい一本の刃。 「む。良い包丁だ」 「空気読んで驚いてよ!」 素早く突っ込みを入れた鴉も、さほど驚く様子がなく―というよりは恐怖が勝ったと言うべきか―ちらとアレクセイを見、横目で恐る恐る、扉の先へ視線を戻した。 「鴉」 地を這うような声は、二人のものではない。鴉といえば、その長い着物の裾に顔を埋めて、アレクセイの背後へ隠れる。その様子を眺めながら、アレクセイは扉の先、直線に伸びる廊下に目を向けた。 暗い茶色の板が続くその先に、一人の女が立っている。彼の表情が、変わった。そして、僅かに輝く。 白い着物に浅黒い肌は、ミスマッチでいて、魅力的。茶混じりの黒髪は肩まで伸び、片目を隠す長い前髪が特徴であった。そしてその瞳には―鴉と同じ、透き通るような翡翠の宝石があって。 確信を、抱いた。 「外の者を連れてくるな、とは言っていないが…男は、絶対に連れてくるなと言ったはずだ。馬鹿者!」 激しい足音を立て、彼女が近づいてくる。さほど恐くはないはずの声が、どうしてだろうか、酷くこの男を震えさせている。 成る程、姿は似ていても違うものはあるらしい。 「だ、だってぇー。会わせてくれないかって真剣な目で頼まれちゃったんだもん」 「会わせる?」 そこで彼女が、殴ろうと上げていた手を止めた。胸ぐらを掴む手だけは、そのままであったが。 「お前の遊び相手ではないのか?」 どうしてかアレクセイの眉間に、シワが寄る。蔑む目で鴉を見やれば、「違う違う」とこれでもかと言うほどに首を横に振る。 その姿に目を伏せ、深いため息を吐いた。 「成る程な、そっちの気か」 常々呆れさせる、そう付け足し鴉の頭を小突いた。小さな悲鳴が、もう一発の拳に大きくなるが気にしない。 「違うもーん遊んでないもーん!情報収集だもーん!」 「彼はさて置き、すまない。君に一つ尋ねたいことがあってな」 片手で鴉を隅に追いやり、彼女の眼前にアレクセイは立った。自らの顎に指を添え、腰を曲げて彼女を覗き込む。 「何を」 突然の事態にたじろいだのか、詰まる声で、彼女は身を引く。紅と翡翠が、目線を同じくして交差している。無表情だった紅の瞳が鋭く細められると、彼女は悟らせないように息を呑んだ。 「君が私の探していた女性だろうか」 最後まで言い終わらぬ内に―激しい音を立て、額に鈍い痛みが走った。ジワリとしたそれに顔を歪めると、同じく痛かったのであろう額をさすりながら、彼女が背を向ける。 「ちょっと!テメーの事本人に聞いてもわかんないでしょ、バカ大将ッ!」 除け者にされ口を尖らせていた鴉が耳打ちをしてきたが、アレクセイはじとりと彼を睨むだけで、奥へ行ってしまった彼女に続く。 背後で「お邪魔しますは!?」などと耳に入ったが、聞こえないフリをして。 (出ていけとは言わなかった) 額に響く微かな痛みは、その思いで打ち消されていた。 [*BacK][NexT#] [戻る] |