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「……ねえ」
唐突にして頭上から掛けられた小さすぎる声に、しかし葵は全く気がつく様子がなかった。
昨日は帰宅後、早めに風呂に入って月9ドラマに熱く執心、そのままテレビゲームに突入し没頭した結果、宿題の存在を見事に失念。
それでいつもの通り、周囲の喧騒すら耳に入らないくらい、聖のノートを写しとる作業に必死になっていたのだった。
「ん?――ぉわっ!?」
表面はあくまでも優雅に保ちつつ食らいついていたノートの上に、その声の主――少女の長い黒髪が突如ばさっと流れ落ちてきたものだから、つい葵は派手な喫驚の声を上げてしまっていた。
大きな声に、怪訝そうな顔が一斉に葵に集まる。
それらの視線に気付いた葵は、心情では冷汗をかきながら、何事もなかったかのように表情を和らげた。
落ちてきた黒髪をつたって見上げていくと、自分の横に佇んでこちらの手元を覗きこんでいる少女と目が合った。
「えっと…なに?」
離れたクラスの女子なのだろう、初めて見る顔に向かって葵はにこりと微笑んでみせた。
同じ色のリボンタイをした少女は上体を傾いだ姿勢を崩さず、じっとした目で凝視してくる。
「河合聖という人は?」
呟くような声は、愛想の欠片もない割に柔らかさを感じさせ、顔は個性の希薄なこの学園の生徒達の中でも際立って表情が薄い。
しかし黒目がちで少し吊り気味の切れ長の瞳に、何だか吸い込まれそうな錯覚を覚えながら、葵は唇を開いた。
「河合君なら昼休み前に早退したけど…ちょっと諸事情があって」
少女を見上げたままノートの端に器用に何かを書き込み、葵はそこを指差した。
少女がちらりと目を据えたそこには『たぶん屋上』と書かれてある。
まばたきほどの瞬間だけ薄い笑みを浮かべた少女は、ありがとう、とだけ残すと颯爽と教室から姿を消した。
(………?)
黒髪の少女の後ろ姿を見送った葵は眉間をひそめた。どうにも解せなかったのだ。
今日は快晴。
にもかかわらず、その少女の手には青天に似つかわしくないものが握られていたからだった。
*****
どこまでも続くかと思われる空の青は深い。
屋上の静寂の下、聖はいつしか浅く眠り込んでしまっていた。
昨日、雨に濡れてしまったのがやはりよくなかったのだろうか。けだるさの取れない体は軽い眠気も手伝っていやに重い。
休憩するつもりではなかったが、屋上を包む数日ぶりの陽光はいつになく暖かく、鞄を枕代りに少しだけ横になるつもりではあった。
そしてやはりというか、あまりの心地好さに眠気を堪えきれなかった。
本当は一刻も早く帰宅して行かなければならない所があるのに。
なぜなら――今日は彼の両親の十一回忌だったから。
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