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「ねぇ…」
静寂であったからこそ何とか聞き取ることができるような弱々しい声が、ふいに二人の耳に滑り込んできた。二人の横目が同時に声の主へと向く。そこには、首を深く折り曲げるようにしてうなだれ、肌寒いのか上着のポケットに両手を入れ、小さく縮こまるように床に座り込む沙凪の姿があった。
うなだれたままの頭からぼそぼそとした小さな声が聞こえてくる。
「二人ともさ…さっきから何やってるの?すごい音がして耳が痛いんだけどさ…私にも解るように説明してくれないかな…」
言っていることのどこにも今のこの状況に噛み合う箇所がない。歩と朔夜の命の掛け合いから完全に外れた内容に、呆れるような失笑が向けられる。
「沙凪さん。まだ逃げ出してなかったのは懸命だね。でも僕は君に用があるから、この邪魔な女を始末するまでもうちょっと待っててくれるかな?」
「用って…?」
「うん、今はそれどころじゃないんだ。ちゃんと後で聞いてやるから待ってろって」
それは沙凪が初めて耳にするようなひどく冷たい響きを含んだ声だった。しかし忠告を無視…というよりもまともに人の言葉を聞いているのかも分からない様子の沙凪が、なおも口を開く。
「朔夜くんは…お母さんを騙してたの?…私のこともそうなの?どうして…どこから…」
ふぅ、と肩をすくめた朔夜が仕方がないなあといったように戦闘体勢を緩め、皮肉をこめて溜め息をついた。歩は構えを解かないまま無表情で沙凪と朔夜のやりとりを静かに見ている。その指先からはぽたぽたと血が滴っている。左腕の損傷――実は見た目よりも酷いのかもしれない。よく見れば心なしか歩の顔色が悪い。
「騙してたなんて人聞きが悪いなぁ。間抜けな君達が気づかなかっただけでしょ?」
「…………。」
「どこから?最初っからに決まってるじゃないか。僕は君が頑なに隠しているものが欲しいがために、君に近づいたんだよ」
ぴく、と沙凪の頭がわずかに揺れる。
「そう、僕は君が欲しかった。君からは特別な匂いがするんだ。稀有な能力を持つ者特有の匂いがね。…君自身には、僕が言っていることがよく分かるよね」
ねちっとした優しい声にも沙凪は無反応だった。肯定も否定もしない。ただただ俯き、半開きにした眼差しで己の膝を見つめている。
「画廊の店長と君の母親はまぁ流れでね。邪魔だったことは否めないし。ああ、でもそれなりにいい拾いモンしたと思ってるよ?日常生活ではクソの役にもたたないけれどね」
肩を揺すってくつくつと笑う。あらゆる悪意がゆがんだ口許に宿っている。
「ああ、そうだ。さっきこの女が俺を撃ち殺した中に君のお母さんの命もあったんだけど…うーん何番目だったかな…。まあいいか、どうでも」
「てめえ……」
歩が憤りに目をぎらつかせて低く呻く。グリップを悔しげに握りしめる鈍い音が部屋に反響する。
沙凪が少しだけ頭をもたげた。前髪に隠れ、目は合わないけれど、その表情には最後に残った一本の糸をようやく見つけた亡者のようなものが浮かんでいた。
「でも…私のことが好き、って…」
「ふはっ、そんないくらでもつけるようなつまらない嘘をよくもまあ……君は本当に間抜けだね。そんなことだから、君の本当の両親が、君が赤ん坊の頃に不動蛍子の手によってとっくに殺されていたことにもいつまで経っても気がつかないんだよ。人殺しをずっと母親だと慕っていたんだよ君は。ああ可哀相に」
歩が息を飲んだ。瞠目し、信じられないというように沙凪を見つめた。
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