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「…僕はいいよ。事情はよく分からないけど、落ち着いてから聞くよ。君が心配だから一緒にいる。両親は先週から海外出張に出ているから帰りが遅くなっても問題ないし…」


どこまで優しい言葉なのだろうか。
柔らかく篤実そうなその声音は、相手の安心感を最大限引き出そうとするものだった。

朔夜は包むように沙凪の肩に手をかけ微笑みを途切れさせない。
『彼女を案じる彼氏』
その立ち位置を演じる朔夜には一分の乱れもなかった。


「…………。」


歩は――朔夜が沙凪の前に姿を現してからむっつりと黙り込んでいた。二人の様子をじいっとした眼差しで凝視している。

いや、どこか距離感のあるその双眸は、慎重に二人を探っているようだった。

一緒に逃げようと興奮を交えて叫んでいた沙凪の様子に対しても、肯定も否定も何の反応も示さない。

それはどことなく、己の心の隅だけで全く別の考えを巡らせているようにも見えた。


「…あたしは行かね。ちょっと用を思い付いた」


歩は沙凪の肩をぽん、と叩くと、それ以降顔を見合わせることもせず、気怠そうに廊下に投げていた鞄を拾いあげた。

ほんの数分前まで激昂していたとは思えないくらいに、体全体から淡泊な雰囲気を放っている。

それ以降何も告げることなく背を向けた歩は、そのままドアの向こうへと颯爽と姿を消していった。


「あ……若菜さん…」


歩の背を追い掛けようとした沙凪の腕が、背後からそっと掴まれる。振り向いたそこでは落ち着いた表情をした朔夜が横に首を振っていた。


「一緒に来られない事情があるんだと思うよ。無理強いはしない方がいいんじゃないかな。それに……急がなくて大丈夫?」

「……うん…」


心残りのある頷き方をしたそのときの沙凪は、例えるなら――
底の無い沼の中心で溺れながら天から垂らされた細い糸を必死で手繰り寄せる罪人のような、
逃げ場のない迷宮の行き止まりに追い詰められた迷子のような、

そんな――わずかな衝撃でさえ呆気なく千切れてしまいそうな、そんな危うげな眼差しをしていた。



***



――なぜ歩は単身、行動を別にしたのか。

その理由はまだはっきりとは形を取り留めていない。言わば第六感のようなものだった。

脳裏に引っ掛かったのだ。それがざわざわとざわめいて、どうしようもなく彼女をつき動かすのだ。

しかし何よりも決定的だった理由がある。


(くせーんだよ)


歩は自分の部屋の引き出しから、学校の緊急時連絡網を取り出した。
ぱらぱらとめくり、一番後ろにある住所録ページに目を留める。


(…血の臭いなんぞさせやがって)


自分のカンに間違いがなければ、沙凪から離れるというのは誤った選択なのかもしれない。しかし確証が欲しかった。



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