3
覆すことの叶わない現実を叩きつけた歩の言葉――沙凪には、その声が小さな耳鳴りのように酷く遠い所から聞こえたような気がしていた。
言葉の意味が頭の中に留まって、激しく渦を巻いて、ずどん、と脳天を射ぬく。
――今のはなんだった?
今、自分の目の前を通り過ぎていったものは、
「……、さん…」
…音がきえた。
沙凪の体が小刻みにぶるぶると震え始めた。
歯が噛み合わない。
時間軸が狂わされたような目眩がする。
「………………。」
まさか、こんな、ことだけは。
こんなことになるような事態だけは絶対に訪れないだろうと、今の今まで心のどこかで思いこんでいた。それだけは信じきっていた。疑うことすらなかった。
…頭の中を。轟音が襲い狂う。
『この子には何の罪もない――私が引き取るわ』
『あなたは考えている事を馬鹿正直に行動に出しすぎなのよ、沙凪』
『今度、私のデッサンでもお願いしようかしらね、画伯さん』
母の、女性にしては少し低めの柔らかい肉声の断片が脳裏を次々に過ぎっていく。
…どれだけの時間が経過していただろう。
いつしか震えは止まっていた。ゆっくりと俯いていく沙凪の動きは、ひどく緩やかだった。
緩やかに眼前にかざした手の平を、じっと凝視している。
いつまでもじっと凝視している。
――ぽつり、何事かを呟いた。
***
部屋の中では、室内を縦横無尽に飛び回る《それ》の攻撃をロッドで辛うじて受け流した反動で弾き飛ばされた歩が床に膝をついて息を荒げていた。
「くそ…もうどうしようもないのかよ?!あたしは、あんただけは…」
手にかけたくない。
歩の顔を歪ませるのは、どうしようもない状況に対する辛苦だった。
――救えないくらいに荒れていた時期の彼女に真正面から心をぶつけてくれたのはその刑事だった。
叱りとばして感情のこめられた手で殴り飛ばしてくれたのも、その刑事だった。
彼女にとって、一縷の光にも等しい存在だった――
不意に視界の隅を動くものが掠める。見ると、沙凪が酷くゆったりとした足取りで壁に掛けてある母親のジャケットに近寄り、手を差し入れてごそごそとしていた。
「馬鹿、何やってんだ!便所か風呂場に鍵閉めて隠れるか外に逃げろ!」
飛びかかってくる蛍子を伏せて避わしながら、歩が鋭く怒鳴りつけた。
しかし沙凪は何も聞こえていない様子をしていて、ぼんやりとした眼差しを三面鏡に向けている。じっとそれをみつめている。
歩の存在も、歩に襲い狂う母親の存在も何事にも気を留めていない様子だ。
一歩一歩を踏み締めるようにそこへと歩み寄る。音もなく三面鏡を開く。
そしてここで初めて、沙凪は彼女を――変わり果てた蛍子に、母の成れの果てに、鏡ごしに視線を向けた。
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