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沙凪の鼻をすする音が聞こえるなか、歩はじっとりと考えを巡らせていた。


(これは一体何だって言うんだ…昼間といい今といい…。偶然?いや只の偶然がこんな都合のいいタイミングで繰り返される訳がねえ。これは…たぶん――)


胸の内に生まれた黒いわだかまりがむくむくと広がっていく。
小さく閃いた予感は、次の瞬間にははっきりとした形を成していた。


(たぶん狙われてる…。狙われてんのは――)


歩はゆっくりとそこを見下ろしていった。
自分の制服の袖を摘んで、怯えて萎縮している小柄な少女を。

歩は小さく咳払いをした。
喉に何かがつかえて気持ちが悪い。空気と一緒に吐き出してしまいたかった。


「沙凪」

「…ん?」

「お袋さんとこに行くぞ。もうこれはただ事じゃねえ。保護してもらえ」


沙凪はもう、いつものように『どうして?』『大丈夫だよ』とは言わなかった。
彼女は素直にこくりと頷いた。
この完全に奇妙で何の救いも見いだせない地獄のような事態に、ここまできて気のせいだと思えるはずもなかった。


――二人はすぐさま逃げるようにして画廊を後にする。
夜空に広がる陰り一つ無い星雲の美しい輝きを見上げることなど、今の二人の精神状態では無理なことだった。



***



これは何かの間違いで現実世界に紛れこんできた悪夢なのだろうか。

一体二人の周りで何が巻き起こっているのか。

悪夢という渦が存在するのだとしたら、二人は丁度その渦の真ん中で周囲の変化に気付くことができずに浮かんでいるだけの状態なのかもしれない。



「おかしい、おかしいよ…」


沙凪の声は、もうどうしようもなく震えを隠せないでいた。


「今日はもう仕事終わって家に帰ってるはずなのに…」


なのに――電話が繋がらない。

電車の先頭車両。その片隅で、そわそわと落ち着きなく携帯電話を開いたり閉じたりを繰り返している沙凪の肩を歩の手が掴んでいる。
それは彼女なりの不器用な落ち着かせ方だったが、今の沙凪にとってはあまりにも頼もしいぬくもりだった。


「落ち着け。ひとまず帰ってみねえことには何も分かんねえだろ」


かすれた小声で沙凪に囁いた。煙草で傷んだ喉は、うまく明瞭に囁けない。

その様子は――恐らく周囲の目から見ると、大人しそうな少女が不良に絡まれて連れ回されているように見えるのだろう、座席に腰を並べる一部のサラリーマンがチラチラとした視線を彼女達に送っている。



あのあと――沙凪は母親に幾度となく連絡を取ったが、家電にも携帯にも全く繋がらなかった。
何度も、何度も、反応のないリダイヤルを繰り返す。

そうして一駅過ぎた所で、沙凪達のすぐ脇のドアから二人の女子学生が乗車してきた。ダークブラウンに近い珍しい色の制服を着ている。

腰まで伸ばした長い黒髪の、静かで愛想がなさそうな印象の少女と、闊達で明るそうな印象の少女、という対照的な二人だった。



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