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3


「……………。」


言葉を失う。
ただただ呆然と、それを凝視することしかできない。

眼前に広がる非現実。しかし今、息をしているこの瞬間は…これはどうしようもなく現実なのだ。


色とりどりの顔料が並べられている陳列棚のそのさらに奥。
際奥に位置する天井角には、まるで蜘蛛のように――男が静かに貼り付いていた。
手足の裏が壁面に吸着しているのではなかろうか、というような不自然な態勢で。

男は獲物を狙う猛禽のように、真っ直ぐこちらへと視線を注いでいる。

――いや、向けられているのは視線ではなかった。
視線などなかった。

なぜならその男の眼鏡の奥にはぽっかりと空洞が空いて黒く陥没していて――本来あるべきものがそこには無かったのだから。


「て…んちょ…?」


掠れた響きはどこにも届かず震えて消えた。

ごくり、
唾液を飲み下す喉の音がいやに耳の奥で響いた。


『しゅるるる……』


男がふいに発した不自然な摩擦音のような息遣いを鼓膜が捕らえた瞬間、一気に頭の中を戦慄が支配する。


『しゃあっ!』


耳にギチ、と痛みを残すような奇声とともに壁を蹴った男が、立ち尽くしている歩の眼前に一瞬で詰め寄った。

余りにも異様な光景に硬直してしまっていた歩は、受け身すらとれないままのしかかられ、その場に勢いよく押し倒された。

ずだん!衝撃が弾けて、背中から頭にかけて激痛が突き抜け、一瞬意識が遠退きかける。

ただでさえ腕力のある男の人力とは思えない信じられない握力に、押さえ付けられた両肩がぎしぎしと嫌な音をたてた。

視界に飛び込んでくる黒い空洞。
至近距離で見ざるを得なくなった、両目を失った彼の痛々しい顔を正視できず、歩は顔を歪ませて瞼を強く閉ざした。

閉じる。すべての情景が消える。消えて、そして――


「わ…若菜さん…!」


自分を呼ぶ声がした。
ピィン――と耳に突き抜けるような悲痛な声に、刹那、麻痺しかけていた意識がカチリと覚醒する。

ギロ、と歩は彼を睨め上げた。直後、歩の肩を支点にして上から引っ張られるように歩と彼の体が浮かび上がった。

ばん、と下半身をそらせるようにして男の身を浮かせ、自身の身を下半身の方へ引く勢いを利用し――頭上へと放り飛ばしたのだ。
尋常ならざる膂力だった。

陸自の兄に、さんざん逆さ吊り腹筋やら何やらかんやらさせられていたクソむかつくあの日々の鍛練が、こんなところで功を奏した――

ニィ、と皮肉じみた笑みを口の端に貼りつかせ、彼女は素早く跳ね起きた。
その双眸には獣のような輝きが戻っている。

薄っぺらい鞄から黒い棒のような物を素早く抜き出した歩は、鞄を放り投げると同時に棒を素早く一振りした。

しゃきん!と50センチ程の長さに伸びたそれを、前に横一文字に構える。
それは、警官が標準装備している伸縮型の警棒に似ていた。



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