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「はい、不動ですが」
苦しげな様相や焦燥など微塵も感じさせないなめらかな口調で、蛍子は手に取った受話器を耳元に押し当てた。
返事は直ぐに返ってくる。
『ああ、いらっしゃったんですかお母さん。今日もお帰りが遅いと思っていたのに、まったく僕は運がいい』
「どちらさまでしょう?」
受話口から聴こえたのは、とても若い――少年の声だった。
しかし彼女には、この年頃に親しい知人などいない。
それに必要以上に馴れ馴れしい印象のその口調に、少なからず虫唾が走った。
蛍子は眉間に皺を寄せ、相手の次の言葉を待った。
『いやだなぁお母さん、僕をお忘れですか?過去に一度きりですけどお会いしたじゃありませんか。いや実は、ちょっと娘さんの声が聞きたくなって電話してしまっただけなんですけどね』
――引っ掛かった。
自分は間違いなくこの声を過去に聞いている。
しかし記憶が明瞭を成さないという事は、取るに足らない相手、または警戒を払うに至らない程度の相手――
しかし声色に捨て置けない違和感を感じた。奥の方に何かが含まれている。
ただの悪戯という可能性が結局は一番高いのだろうが、念のため相手を確認しておいた方がいいのだろう。
だがしかし…今は――。
「誰か、と聞いているのよ。悪戯なら切るわ」
相手にしている暇などないのだ。今、彼女にとってひどく重要な事態が起きている。後回しになどできない。
苛立ちを隠さず低い声で返し、さっさと電話を叩き切ろうと耳から受話器を離しかけたとき、声は続けられた。
『うわあ、怖いなぁ。さすがは県警の刑事さんですね。――いや、こうお呼びした方がいいのかな?単式戦闘員クリムゾンさん、と』
"クリムゾン"
その言葉を耳にした瞬間、蛍子の顔からすべての表情が消失した。
「何者だ」
刺々しい誰何。蛍子はぎし、と小さく奥歯を軋ませる。
今この瞬間、彼女の頭の隅に閃光のように瞬き頭を支配した一つの予感――
(…こいつだ)
反応が消えたオウル。
知る筈のないコードネーム。
殺されていく因子。
刑事である自分への接触。
因子を持つものへの接触。
――間違いない。
これはただの予感に過ぎない。そして根拠の乏しい閃きだ。でも間違いない。
こいつは一連の事件における決定的な何かを握っている。
もしかすると、中心に近い位置に存在している人物なのかもしれない。
しかし彼女のコードネームを知るという事は、中核との接触を過去に持つ反逆者か、あるいは。
奥歯をぎりぎりと幾度も深く噛み締めていく。
――電話の主は、彼女の内に複雑に絡まり合う模索など勿論意に介すはずがなく、再び小馬鹿にしたような口調で黙したままでいる蛍子に絡んできた。
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