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がらんがらんがらん…、
よろめいた拍子に掴み損ねたダイニングチェアが、がつん、とテーブルにぶつかった。
その衝撃で床に滑り落ちてしまった漆塗りの盆が、視界の隅で音をたてながらぐるぐると廻っている。
「ぐ、…ごほっ」
力任せにシャツの胸元を掴み寄せてその衝撃を堪えた蛍子は、大きく肩で息をついていた。
半開きにした唇から重い呼吸をゆっくりと吐き出していきながら、大きく見開いた目で呆然と虚空を凝視している。
(これは…)
よろめきながら壁に手を這わせて移動すると、壁に掛けてあったスーツのジャケットに手を伸ばした。
開いたジャケットの中からは、硬質の光――ちょうど両腰の部分にあたる箇所に仕込まれた小型拳銃の黒い光沢がちらりとよぎる。
食いしばった歯の隙間からうめき声を漏らしながら、彼女はジャケットの内ポケットに手を差しいれた。
――蛍子はオンとオフを小気味よいくらい綺麗に切り替える人間だった。
今日が非番日であった彼女は朝からのんびりと、しかし何時でも緊急召集に対応できる体勢は整えつつ、ゆっくりと珈琲を楽しみながら自宅で休暇を満喫していたところだった。
しかしやはり例に漏れず、事態は起きた。しかも娘の通う学校で、娘が事件に巻き込まれて――連絡を受けた時、全身から音をたてて血の気が引いた。娘の身が無事だと分かった瞬間、その時ほど全身で安堵を表したことはない。
そうして数時間だけの短い勤務を終え、先ほど自宅に戻ったばかりだった。
今日一日で一週間働きずくめたくらいの精神的疲労を背負ってしまったが、飲み残していた冷たい珈琲を一口含んでその苦みにホッとしながら、夕飯の支度をしなければね――と思い立った、その矢先の出来事だったのである。
蛍子は引っ掻くようにして内ポケットをまさぐり、携帯電話を掴み出した。
(楽観できるレベルのものではなかった…一体何があった?)
そう、脈絡もなく蛍子の臓腑を突き抜けたその衝撃は、彼女を模して造られたある人間の身に致命的な危機が降りかかった事を伝えるシグナルのようなものでもあった。
致命的な危機。それが意味するのは――
携帯電話の短縮ボタンをせわしなくかちかちと押しては切り、再び押しては切り――しかし予め設定されていた三種類の通信手段はどれも彼と通じない。
それでも彼女は通信を繰り返し続けた。
直ぐに通信に応じられないだけなのだ、きっとそうだ、そうなのだきっと――
「オウ、ル…」
彼の名を呼びながら、蛍子がしゃがれた声を絞り出した、その直後だった。
リリリリリ――突如、廊下に電話の鳴り響く音がこだました。静かな室内を、その電子音が耳障りに何度も揺らす。
ぴた、と目玉を電話に向けた蛍子は少し躊躇いを見せたあと、携帯電話を手にしたままふらふらと玄関口にまで足を運んだ。
苦しげに首を曲げて液晶画面を覗きこむ。
そこには登録されていない、知らない携帯電話の番号が表示されている。
耳をつんざく電子音とちかちかと瞬く着信ランプが、蛍子の心を追い込むように掻き乱した。
――こんな時に…!
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