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短篇
悪良丸硬-2
「おう、この前の兄ちゃんじゃねえか」
「……ああ、人違い、じゃ、なかったんです、ね……」
「なーに言ってるんだ、案外ヤバかった癖してよぉ」

爽やかな朝、引っ越したばかりではあるが大家である相手を除き特に隣人や同じアパートの相手に何一つ挨拶を行っているのは間違いない。恐怖と面倒臭さが勝ってしまっている。
おいおいやって行こうかなと思っていたら、隣の扉の内側からぶわり、と膨れ上がったかの様に太い巨体と昨日見たばかりの狸の顔立ちが目に入り、咄嗟に目を逸らしたら背後からのしのしと近付かれて話し掛けられた訳である。
確かに低く空気と耳を通じて腹の底を揺さぶって来るかの様な重低音は先日聞いたばかりの声色で、話をどうするべきか考えている間にがし、と肩を組まれて重たく太くて硬くい腕の感触が圧し掛かって来てしまう。
存在感というべきだろうか、獣人と人間との種族の差と言う訳でもない、純粋な肉体や骨の太さの違いまで知らしめるかの如き重たさと屈強さである気がする。毛並みは見た目の割にふわふわしている。

「あぁーっ…えっと、この前は、助けて頂いて、あり、ありがとう、ございます」
「へへ、そりゃあどうも。あの悪い狼の野郎はしーっかりと注意してやったからよ、もうあんな悪さはする事無いと思うぜぇ……」

そりゃあそうだろうな。遠巻きに眺めていただけの人間もはっきりと分かる、分かってしまう。あんな行為で、あんな声を上げながら手酷く激しく犯されて、恐らくは気持ち良かったのだ。
悪さをするかしないかの問題ではなく、純粋な雄とかどうとかの問題であれだけ狸人に負けてしまった、のだろう。悪さをするかどうかではなく、もうまともでは要られない様な感じさえもしている。
故に一連の流れを僅かにでも見てしまった今の人間にとっては、非常に気まずくもある。ちらりと見たのがバレていないかというのがそれ以上にあって、肩を遠慮なく叩いて来る今の状況はよろしくない。非常によろしくない。

「んでよぉ。今から予定あるか?」
「えっっと……」

予定がないからぶらつこうとか思っていた時の話である。普段より長く寝て時刻は昼前、遅めの朝食というよりは昼食になる時間帯。荷物は全て出して配備済み。
ぼんやり歩いて辺りの散策ついでに食事をしても構わないし、備蓄しているインスタント食品を食べてからの二度寝も構わないくらいには暇である。暇であった。人間にはそこまでやる事はなかった。

「無い、ですね…ええ、無いんです、けど」「じゃあ決まりだなっ。悪いけどこの前の礼として昼奢ってくれよ」
「えっ?僕が貴方に……です、よね?」「そりゃあそうよっ。別にその辺のチェーン店とかでも良いからよ、な、なっ?さもなきゃお前を喰っちまうかもしれないぞぉっ…?」

道理が通ってはいるものの、先日の狼人がどうなってしまったのか見た人間にとってはある種の脅しにも聞こえていた。本気かもしれないが、その顔は歯を見せて笑いながらぎらついた目で人間を見据えている。怖い。
財布の中身や紙幣を根こそぎ持っていかれてしまうよりは随分と安上がりだろうし、別に脅しの方が目当てである訳でもない。涎を垂らしそうな口元だとかは気にしてはいけないだろう。気にしない。絶対に。

「……じゃあ、ついでにこの辺りの道とか、色々教えてくれるんだったら…」「決まりだなっ!いや待て……隣に引っ越してきたばっかなのに挨拶とかまだなのかよっ?」
「……あー、その辺は……」「まあ良いかっ。へへ、昼飯代浮いたのは本当に運が良いなっ……あ、飯何が良い?」

ばたばたと尻尾が揺れる衣擦れの音が背後で聞こえるのが分かりながら、半ば強引に人間を引き連れて狸人は歩き出す。知っているのは違いないらしく、色々考えてラーメン屋を奢る事になった。
せめてお隣さんへの挨拶は済ませておいた方が良いか、お隣さんであったなら別にすぐじゃなくても構わないか。後者を選んでちょっとだらだらしていたのはこの狸人には言ってはならない気もする。何かと弄られてしまいそうだ。どっちの意味合いでも。
安さが売りのチェーン店。そこそこにアパートからは近いし、客も疎らで四人掛けのテーブル席に向かい合って座って少しだけ余裕がある。狼人に脅されて根こそぎむしられるよりはマシで違いないと、

「チャーシュー麺特盛に餃子二皿、大ライスとウーロン茶一つ!」

他よりは安上がりで済むから問題は無いだろうと、

「替え玉とチャーハン追加!」
「あー奢って貰える飯美味ぇなぁ!スープと餃子もう二皿」
「海鮮ラーメンも頼んでみるかぁ…?あと鶏の唐揚げも一つ」
「替え玉とチャーハン!」
「ウーロン茶お代わり!」

「…………」

まあ狼人のような不良に根こそぎ持っていかれるよりはずっとマシであるべきだ、そうに違いない。
すっからかんではないが大分寂しくなった財布の中身を見ながらも、人間は必死で頭の中で言い聞かせた。自分は助けられたのだ。

「全然食わなかったじゃねえか、もう一軒いくか?」「勘弁して下さい」

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