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短篇
楽々な話7
気が付けば叫んでいた。そして投げ付けた鏡は残っている膂力を持って、全力でジャガー人の顔面に叩き付けられる。
しかし、身体から何まで明るく照らす部屋の中では、毛並みの各所に備わった白くやれた毛色、服の内側で垂れていた皮膚が全て鮮明に見えてしまう。
完全に鏡は粉微塵に砕けて、勢いのままジャガー人の身体が仰向けに倒れる。サンダルを履いていた両足が倒れる。

「……だから、一度や二度じゃないんです、俺が指摘している間に、貴方がそうなってヤケを起こすのも」

声は聞こえて来る。ジャガー人となっていた男の身体は肉ではなく、木を削り出して造ったらしい人形だった。
ベッドの上、寝台の上、毛布の中から這いずる様にして聞こえて来る。全てを分かっている。全てを分かっていた。

「寝台の上に登って来たとして、それでも仕掛けは用意しています…深呼吸ですよ、落ち着いて下さいね。実際貴方はそれだけ長らく貢献してはいるんですからね」
「……っ……何を…何、が、良いのだ。俺は、どうすればいいのだ……」
「与えられた仕事は無事にこなせています、まさに『楽々な話』ですよ…但し事態は深刻化しているというか…貴方が明確に記憶として認識しているのは、此処で俺と話しているだけみたいですよ」
「それが無くなったならば」
「俺が寂しいですね。それから、貴方が明確に認識出来るものがなくなるのならば、気付いたら死んでた。なんて事もありますでしょうね」

そうなったら大変だ、と愉快そうに笑うジャガー人の声に、熊人はぞっとする。
彼の言葉や様子に苛立ったり恐怖しているのではない。何も無いのだ。ダンスを学び、時には走る。
表だった世界においては、何も問題を起こすことなく緩やかに健やかに過ごして、いる。いた。いない。

これまでの過去で思い出したのはこれより前にジャガー人と会話した事だった。その次はそれより前にジャガー人と会話した事だった。
それより前、ジャガー人と会話、調教を続けた話、調教が終わった話他愛もない話頭痛薬を貰った話、薬、調教、ジャガー人。

「……な、にも…お前と話している事以外…何も無い…何も、無くなってしまっている…」
「んじゃ悪化してますね。前までは舞踏会で出会ったアリアリの男装した馬人の話が出て来たんですけどねえ」
「…………」

記憶はなくなっているが舞踏会を何度も行ったという記憶がある。認識はない。
勝手に、記憶の中が処理を遂げた。熊人の中に今や残っているのが、調教に関する技術と記憶と方法を残し。
ジャガー人との会話ばかりが。

だが空虚ではない。竜人に対する注射の打ち方、子持ちの男にして汚い仕事を続けていた者への尋問方法。
腕を切り落とす際に必要最大限の絶望を与える手法、そんな血生臭く汚濁に塗れたもので、熊人の大半が、満たされてしまっている。
それ以外のものが全て熊人の頭の中で全てが必要ないものであると認識されている。何も感じずに内臓を抉り出せるのも、惨たらしい事が出来ない様な弱い感情も。

「扉を開けたまま調教するのをお勧めしますよ。薬の効き目が無い訳じゃないっすから、飲んでから行って下さい。完全に自分が無くなるのが、本気で嫌だってんなら」

手渡された箱の中身を纏めて飲み干す様子に、だから効き目も弱らせてるから過剰摂取じゃないですよ、とジャガー人は分かり切った風に言っている、
こんな事が以前にもあった事にまた震え上がる。冷え切った心と身体、酷く劣化した仮面と衣装。
まだら模様に緑色、千切れそうな各所を覆った革製の仮面を被り直し、喉元にせり上がって来るのは胃液と薬の風味。

「それ、で…本当に俺が救われる、のか?俺が…そうであると、認識出来る、のか?」
「貴方が世界を広げたいのだったら、扉を開けっぱなしにしておくんですよ。良いですか?前は普通に閉めちゃいましたからね……」

噂話における存在だけで各国の兵士を恐怖させる拷問官であり尋問官、調教師である熊人の姿は其処にはない。
心底震えて自分を探そうと振り絞っている姿は衣装越しにも酷い怯えが見える。老体となりながらも保つ膂力、それとはまた別の話だろうか。

今日この場に呼ばれたのは自分に担当が任された存在があの部屋の中にいるから。
どうにもならない為、あるいは時々の褒美であったとしても構わない。忠告の通りに重厚な扉を軋ませて、中にいる存在を捉え、

「ですから扉を」

ばたん、と音を立てて、ジャガー人だけの言葉が残った。調教が始まる。終わるまで扉は開かない。

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あきゅろす。
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