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短篇
楽々の話6
「これが剣士の目で、瓶の中に詰まってるのは貴方の小便っては知ってますね。神経を繋げたまま中に入れて注いだってのは…」
「知らぬ、俺は何も知らないぞ、そんな事……」

やった経験はあるが、それは剣士に対して行ってはいない。熊人は自分を信じる様に必死で頭の中に言い聞かせた。

「それだけ時間の認識がぶれているってのはお分かりですね?きっと扉の中に誰が居るのか、貴方はきっと分からない」
「…………」

心当たりがある、認めてはいけない気がする。だが事実を突きつけられたならば何も言えない、否定する程弱くはない。
指を切り落とした戦士、子供を先に落とした父親、肉体を喪った独り身の男、恋人を孕まされた婚約者。
吐き気の様に一挙に噴出を始めた気分と記憶と精神は何処までもとめどなく今更熊人の手によって止められはしない。

ここまで暖かな記憶だ。冷え切ったあの冬場の中に放置していた彼はどうなっていた、季節は春。春になってからどれくらい?
何も悪くないのに目が泳ぐ、心臓が高鳴っただけでなく幾分か膨れ上がった様に胸元の表面まで蠢き跳ねるのが良く分かった。

「しかしながら、何が悪いかって言うとそれは特になーんにも無いんですよね。貴方の調教の精度は最高潮です、おめでとう」
「……ま、待て。ああ、待ってくれ。俺が思っているよりもずっと…時間が、経っているのか?」
「まあそういう事になりますね。しかしながらあらかじめのテンプレートの通り動いてますから、何か問題を起こしてるって事はないですよ?」

そうだったらここよりあっちの部屋行っちゃってますしね、と語るジャガー人が恐ろしくなった。
心当たりはごく僅かに存在する。記憶の中、経験で全てを成り立たせるのだとしたら。違う。成り立たせてしまっている。
何も考えが無いまま身体が全てあの部屋の中の獣人を堕とす為に動けている。思考ではない。染み渡った記憶の中で、十全に動けてしまっている。

両手を見る。手袋を着ける事もあって毛皮が蒸れる事も何ら珍しくないものとは知っている。
ぼんやりとした光の中では体毛の色合いも分からないが。ジャガー人が指を鳴らした途端。白色の明かりが部屋全体を照らす。

「過程と結果が全て行きつく先を決められ極められたのならば、貴方は立派な舞台装置…調教を成し遂げる舞台か、調教を成し遂げる装置か…まあ、どっちみちですよ」

其処には熊人本来の灰色の毛並みにしては随分と白く、色が抜けきった様な両手と潰れて掠れた肉球の表面、
分厚い爪が生え揃った両手があった。老人にしては強靭ながら、熊人自身が認識していた年齢と比べると、遥かに熟れてしまっていた。
ジャガー人が手鏡を持って来る。部屋の中、表の世界。この部屋の中では見かける事も無かった、のに。

それが全て、熊人を気遣う為であったものだと、全てを知り尽くしてから熊人は理解する。

「俺の見立てですとあの部屋の中に入る事が一種のスイッチ。出たら切れます、貴方の記憶とはずれがあるでしょう」
「…………」
「それで多いに構わなくなっちまってるんでーすーよーねー。情報は既に頭の中にあって、後は全自動になってるみたいで」
「これ……この……これ、が…俺、なのか…俺、俺、は……」
「皆勤賞おめでとうございます、何年かは言いませんがね」

自身に合わせてまばたきをしているのは、驚愕の中鏡越しにその顔を見据えているのは、熊人の記憶の中とは大いに掛け離れた顔だった。
灰色がかった毛並みと思っていた半分以上の面積は灰色から色が抜けた白んだ色合いを見せており、両目の周りは酷く落ち窪んでいる。
情けなくも僅かに開いた口の中にも幾らかの牙は存在せず、義歯の方が多いではないか。片耳の付け根、鼻先には色素の沈着、染み。加齢によって伴うありふれた現象。

少なく見積もっても二十年以上の開きがある。思っていた記憶の中。経っていた実際の時間。笑うジャガー人。

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