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短篇
ふゆ-2
「ひぇっ」

思わず声が出てしまって、今度は真正面で捉えてしまった猪人の瞳が、確かに人間を見たのが見える。
昨日よりも雲が少なく、嫌に輝いている様な星の輝きの真下で、今日も猪人は全裸で、街灯の真下で身体を晒し出しているのだ。

「…………」
「…………っ」

そして何も言わなかった。今日も家では待ち構えているのに、人間が後退りを続けている間、ただ猪人はその場に立っている。
サンダルだけをその両足に突っ掛けた格好のまま、穏やかな表情で人間に微笑みを浮かべている様にも見えるだろうか。
驚きではあり、昨日と全く変わっていない様にも見える。その毛皮の中には張り詰めた硬い筋肉が包み込まれ、そしてその股間は。

毛並みに包まれているものであったが他の個所よりも薄いという事は分かっている。それ以上に巨大なのは、股間からぶら下がっている袋だ。
人間の握り拳程の大きさと、重たさというか質感までもが根本的に違っている様な。人間は何も言わないでいると、猪人が漸く口を開いた。

「興味、あるのかい?」
「っひへぇっ」

露骨に驚いてしまった人間を見て、丸裸のまま猪人はやっと明確に笑う。
自分自身が丸裸である事を知らない様な、悠々とした態度のまま、しかし人間を前にして一歩も動こうとはしていなかった。

「驚いている訳でもないし、通報もしてくれない…このまま話して来なかったら、ずっと続けていたかもしれないねえ」
「そ、そんな、誰が……」

思ったよりも低くて、それ以上に何処か聞いている間に落ち着く様な声色である。猪人の言葉に応じている間、これがやっと日常ではないと認識する。
しかし夜中の寒さに当てられでもしたのか、変に人間は自分が驚いていない事にも気付く。さっき溢れ出させてしまった声まで、ほんのちょっと驚いただけみたいだ。

「別に取って食うつもりなんてないさ…君の方から食べられたがりなら別だけどねえ」
「…な、何言ってる、んですかっ」

バイト先の名残の様に敬語を使って喋ってしまいながら、人間は自分の頬が熱を帯びるのが確かに分かる。
そこでまた、猪人は冗談だよ、と笑った。

「君はこっちを見て驚いたりはしたけど、変に近寄ったりしてない…最初から話し合いが出来るのなら、ね」
「……何が言いたいのか、本当に分からないんですけど……その、だから…えっと……」
「立場をわきまえてるって事だよ…もしも君が願ってくれるなら…その時は、ね……」

まるで分からない言葉ではない。自分がもう少しだけ理解してくれるのなら、その時はきっと。
そんな具合に誑かされる事も無いままに、今日もまた人間は猪人から逃げ帰る様にしていやに寒い空間の中を小走りで駆けて行った。

翌日になって、同じ時間帯にならない様に適当な場所で時間を潰して、また同じ場所で猪人と出会わない事を確認した。
その翌日には、普段通っている道を変えて辿り着いた。なるべくあの猪人と出会ったあの路地には近づかない様に。

そんな予防を数日経て、改めてあの路地を使って。猪人が影も形も無くなっているのを確認出来て、やっと人間はほっとしたのである。
もうあの自分よりも大柄でふさふさとした毛並みに包まれた彼の姿は見る事は無い。僅かな挙動だけでも揺れ動くふてぶてしい玉袋を見る事も無いのだ。

そこまで考えて、どうにか頭を振り払った。思うだけでも、良くない気がした。

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