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08






偽りの笑みなら何度も見てきた。誰にでも向けるその顔。あの笑顔でちょっと優しくされれば、どんな女性だって彼に捕らわれる。彼の笑みには何か力があるように思えた。

幼なじみにだけ向けられた本当の笑顔。もしあの時見たのが作り笑いだったなら、神田は家を飛び出さずにいたかもしれない。嫌いなタイプだと、記憶から消えていったかもしれないのに、忘れるどころか心の一番深いところに住み着いてしまった。特定の人に執着しない自分が初めて抱いた小さな恋心。
でも全ては一方通行。悲しいけれど、少年にとっての一番は神田ではない。笑いたくないなら、笑わなければいいのに。そんなに神田と顔を合わせるのが嫌だったのか。自分の為に用意されたはずの空間が、一秒経つごとにどんどん居ずらくなっていく。そして、同じようにアレンは見るからに元気を無くしていった。


「帰る」


立ち上がった神田を見てリナリーが肩を押さえつけた。賭はいいの?と目で訴えている。

賭なんて馬鹿らしい。こんな賭、もう止めだ。

自暴自棄になって飛び出そうとするのをラビたちが引き止めようとしてくれる。
すまないとは思うけれど、神田とてもう限界なのだ。苦手な甘い物もすんなり平らげてしまうほど頭がごちゃごちゃして、脳は体に早くこの場から離れろと命令する。


「酷いじゃないですか」


逃げようとした自分に冷たい台詞が投げられた。手足が震えそうになるのをこらえて、呼吸を整えた。
誰のせいで、そう言いかけて口を噤む。その場から逃げるように部屋を出た。家に帰り玄関の扉を閉めた瞬間、どっと疲労感が神田を襲った。のろのろと靴を脱いでソファーに横になると、目の奥が熱くなって慌てて上を見上げた。それでも零れる雫に目の前が歪んで瞼を閉じた。
最悪な別れ方だ。あのまま何も言わずこの町から消えていれば、こんなにこじれることはなかったのに。リナリーの賭に乗った時点で、結果は見えていたはずなのに。諦めると決めておきながら終わった恋に縋りついた愚かな自分に罰が下ったのだ。

最悪だ。


「何が」


誰に向けて言ったわけでもないのに、返事が返ってきて鼓動が跳ねる。
握った拳で目元を拭い闇に目を凝らすが、再び水の膜が張り何も認識できなくなる。


「…誰…」

「僕ですよ。鍵もかけないで不用心ですね」


再び拳で目元を拭おうすれば、手首を捕まれソファーに縫い付けられる。
瞬きした瞬間、溜まっていた水滴が頬を流れ落ちた。
少しだけクリアになる世界。
映るのは白。
布か何かで目元を拭われ、情けない姿を見せてしまったと顔が熱くなる。


「って、てめェ、何でここに!?勝手に入ってきてんじゃねェよ!!」

「僕だってリナリーに頼まれなきゃきませんでしたよ。これ、引っ越し祝いだそうです」


驚き、捕まれた手を振り払うと、溜め息混じりに小さな箱を渡された。暗くてよく見えないが、ちゃんとラッピングが施されてある。
黙って受け取りまじまじと眺めていると、アレンは落ち着かない様子であちらこちらに視線を泳がせた。早くパーティーに戻りたいのだろうか。リナリーのいるところへ。
だったら彼を帰さなければならない。これ以上二人の邪魔にはなりたくない。


「ねえ、何が最悪なの?何で泣いてたの?」

「帰れよ、リナリーのところに!もう用は済んだだろ」

「待って。まだ聞きたいことがあるんです」


ソファーに座ったまま背を向ければ肩に手が置かれ、びくりと大袈裟に体が震える。声が近いところから聞こえる。振り返ったら吐息が当たるくらい近くにいるのだろう。離れようとするのに、足が動かない。アレンの近くにいたいと体に反して心が訴える。


「君の好きな人がリナリーじゃないと聞いてから、本当は誰なんだろうってずっと考えてたんです。考えて、考えて、いつの間にかリナリーのことよりも神田のことが気になるようになったんです。だから教えてください。君にあんな顔をさせる人を」


切羽詰まったような口調に神田は内心焦る。
リナリーよりも神田のことが気になるなんて、意味が分からない。神田の好きな人が誰かなんて、彼が知っても何の得にもならない。なのに何故聞くのだ。気まぐれなら止めて欲しい。でないと捨てられないではないか。終わった恋を、叶わない想いを。
だから、


「…もう止めろ」


期待させるようなことを言うな。リナリーに頼まれたからって家まで来るな。ぐだぐだしてないで、二人ともくっついてしまえ。


「神田…?」

「お前こそ酷いじゃねェか。俺が、お前のことどう思ってるか知らないで」


止まったはずの涙が再び溢れる。
何も知らないアレンは神田の顔を覗き込み、その瞳から流れる涙を見つけると目を大きく見開いた。


「リナリーよりもずっと見てた。お前のせいで死ぬほど苦しんだ。毎日毎日、忘れたいのに忘れられなくて…もうどうすりゃいいんだよ。どうすればお前のこと忘れられるんだよ…っ」


背中に強い衝撃を感じ、息が詰まる。呆然として見上げると、アレンが神田の両肩を押さえ覆い被さっていた。白い髪の間から覗く銀灰色の瞳は鈍く光っている。まるで獲物を見つけた獣のような瞳に、体が強張った。
押し倒されている。
気付くのに、少し時間が要った。


「忘れなくていいよ。ううん、忘れないで」


荒っぽい口付け。拒むことも出来ず、人生初めてのキスを受ける。
ただ触れ合うだけの口付けはやがて激しいものへと化した。隙間から口内へアレンの舌が入り込み、驚きで固まっていると舌を絡みとられ甘噛みされた。


「…ん………ふ…」


酸素が足りなくなり、アレンの背中を叩く。最後に軽くキスされて顔が離れた。
荒くなった息を整える。


「…今の、何のつもりだよ」

「何って…キスですけど」

「んなの俺でも分かる!聞きたいのは、理由だ!」

「…僕だって悩んでたんですよ」


馬鹿にされたと思い怒鳴ると、彼は俯いて小さく呟いた。首を傾げ顔を覗くと、濡れた目元を口付けられた。
再度固まると、ごめんねと言われ力強く抱き締められた。何がごめんなのか分からず、彼のキスの意味も分からず霞がかった思考で今の状況を理解しようとする。
夢のような現実。彼も自分のことを好きでいてくれただなんて、そんな都合のいいことを思っていいのだろうか。現実だと言ってほしくて、証明してほしくて綺麗な瞳を見つめる。彼の瞳は潤んでいた。


「君を苦しませたのに、僕はそれが嬉しい。酷いよね」


腕の力がより強まり、苦しくなる。だが、それすら気にならなくなるほど神田は混乱していた。
初めから叶わないと決めつけていた恋にピリオドを打つつもりだった。その決意を今更、変えていいのだろうか。大事な幼なじみの顔が脳裏をよぎる。彼女の悲しそうな顔は見たくない。なら、この腕を振り払うべきだ。
だけど体を包む温もりが心地よくて、そっと目を閉じて意外と広い胸板に頬を寄せた。一瞬弧を描いた銀灰が、嬉しそうに細められる。偽りのない笑顔だった。

頭の中で、何度も彼女に謝りながらアレンに縋りついた。



ごめんなさい。止められないくらいこの人が愛しいのです。





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