溶ける波紋 僕は何者なんだろう。 ボクは オレは ワタシは 誰? この赤い水たまりは何なんだろう。 つん、と鼻につく。この液体は。 分からない。 頭がうまく働かない。 でも、僕はこの臭いは嫌いじゃない。 むしろ…ずっと、求めていた。 「うわあぁぁあっっ!!」 夢だ。 そう気付いたのは、自分の叫び声が耳に響いて頭が痛くなったからではない。 ふと、額に置かれた温もりが、夢のように甘いのにやけに現実味を帯びていたからだ。 「モヤシ」 少し低い青年の声に、視線を巡らせる。月明かりしかないが、夜目がきくためその部屋はよく見渡せた。 埃の匂い、本棚、闇に溶けそうな君の姿。 そういえば。師匠と話した後、心配して駆け寄るリナリーとジョニーから逃げるように資料室へ駆け込んだのを覚えている。奥のソファーに横になったところまでは覚えているが、そこから記憶がないということはあれから眠ってしまったのだろう。 温もりにイノセンスに犯された掌を重ね、一息吐く。 「かんだ」 「あぁ………」 名前を呼ぶだけで心が満たされるなんて、僕はどれだけ君に溺れているんだろう。もう君なしでは生きられないのかもしれない。酷い中毒だ。 彼はどうやらソファーの横の床に座っているらしい。 目線を僕に合わせると、黒飴みたいな瞳で心配そうに見つめてきた。その中に映し出された僕の姿といったら本当にカッコ悪い。コンプレックスの白い髪はくしゃくしゃ。服も乱れ、汗が滲んでいる。 着替えようかなと思っていると彼の手が額から退き、代わりにピシャリと冷たい何かが当たった。それは頬にも飛び散り、顔を濡らす。 「それで体拭け」 視線を下げれば、彼の足元には水の張った洗面器が。いつもながら用意がいいなぁ、と苦笑しながら起き上がり、ソファーに座り直す。 辺りはしんと静まり返っている。ここには僕と君しかいない。 君と僕だけの神域。 君はさながら女神様のように僕に微笑む。 僕に手を伸ばして、真新しい団服を脱ぐのを手伝ってくれる姿に、目の奥がじんと熱くなった。 「モヤシ?」 僕だけの名を呼ぶ君の唇を、指でなぞる。 すると神田は自分から顔を近付けてきて、僕もそれに応えるように唇を重ねた。 タオルが床に落ちる音が聞こえたけれど、無視をした。 今は何も考えたくない。 君だけを感じていたかった。 end |