伊勢物語
第百五段 白露は
*
「あら、貴方、どなたでしたかしら?」
久方振りに訪ねた女は、そう業平を出迎えた。
その表情は御簾の向こうにあって見えないが、ひどく険しい顔をしているのは容易に想像がつく。
頭が痛み始めたのを我慢し、業平はいつも通りの美麗な微笑みを浮かべた。
「おや、こんなにいい男のことをお忘れですか、姫君?」
「まあ、以前にお会いしたことがございましたかしら? あまりに遠いことでしたから忘れてしまいましたわ」
業平の軽口にも女は冷たく答える。まだ業平が御簾内に入ることを許す気はないようだ。
業平は溜め息を吐いた。
「それ、私のことを覚えているってことになるじゃないか」
「そうですわね。貴方よりは覚えているみたいですわ。貴方は今まで私のことなんてすっかり忘れてしまっていたみたいですもの」
痛いところを突かれた業平は黙るしかない。確かに以前ここを訪れたのはかなり昔のことになる。
「淋しがらせてしまったね。ごめん、許しておくれ」
「別に、淋しくなんてありませんでしたけど。貴方なんていなくても!」
衣擦れの音がして御簾の向こうの人影が立ち上がる気配がする。業平は慌ててそちらへ手を伸ばした。
「ちょっと待った!」
「もう、何をなさいますの!?」
業平が女の細い腕を掴むと、女はそれを振り払おうとする。しかし女の力では業平には敵うはずもなく、あっさりと業平に包み込まれてしまう。
「離してくださいませ!」
「無理だよ、私は君をこんなに恋しく想っているのに」
業平が女の髪を一筋すくって口付けると、女は泣き出しそうに顔を歪める。
「本当にどうしようもない方ね」
「そんな男に惹かれてしまう君はどうなんだい?」
「私ってどうしようもなく見る目がありませんわね」
「また手厳しいことを言うね」
二人は声を上げて笑うと、その唇を重ね合わせた。
「ほら見てごらん、草に露が宿って美しいよ」
翌朝、先に寝床を出た業平は庭を眺めながら女に呼び掛ける。
「前に逢った時には雪の中に咲く紅梅が美しいとか言ってましたわね。まあ遠い昔のことですけど」
「そうつれないことを言わないでおくれ。あの露のように消えてしまいそうな心地になるよ」
業平がそう呟いて俯くと、女はにっこりと綺麗な微笑みを浮かべた。
「消えてしまえばいいじゃない。
白露は消なば消えなむ消えずとて
玉にぬくべき人もあらじを
(白露のように消えるなら勝手に消えればよろしいでしょう。さっさと死んでしまいなさいな。消えなかったとしても玉として糸を通して、大切にしてくれる人もいないでしょうに)
そういうわけですから。どうにでもなさいませ」
女の辛辣な言葉に業平は一度は頭を抱え、そして思わず苦笑した。
「まったく、君には敵わないな」
楽しげに笑む女を、業平はもう一度腕の中に閉じ込めた。
むかし、男「かくては死ぬべし」と言ひやりたりければ、女、
白露は消なば消えなむ消えずとて
玉にぬくべき人もあらじを
と言へりければ、いとなめしと思ひけれど、心ざしはいやまさりけり。
20090125 彩綺
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