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伊勢物語
第六十段 宇佐の使
業平は勅使として宇佐八幡宮を訪れていた。何か面白いものでもあろうかと期待していたものの、存外何もなくて暇を持て余す。
現地の者の歓待を受けることとなっていたが、それもどうせ田舎の鄙びた者からであろうと業平は一人ごちた。




「ようこそおいでくださいました。何もない家ではありますがどうぞごゆるりと」


この家の主人が深々と頭を下げる。いかにも田舎じみた、むさ苦しい男である。身につけている着物も粗末なものだ。業平は表情だけは微笑を絶やさず礼を述べた。
業平とは対照的に主人は心から楽しそうにあれやこれやと語っている。業平は面倒だと思いながらもにこやかに相槌を打った。


しばらくはその長々と続く口上に耳を傾けていたが、業平は辟易してなんとなく辺りに目をやった。
家の中は、幼い少女から年を経た女性まで、数多の女性が宴の支度に所狭しと駆け回っている。あの主人の顔を眺めているよりよほど目に優しい光景である。

その中で、業平の目がある一人の女性に止まった。

女性たちを総括している様から目の前の男の妻であると予想できる女性、その姿に業平は強く心惹かれた。目を見開き見つめていると、女性は奥へ入っていってしまった。
業平は視線を主人に戻し、詰めていた息を一気に吐きだした。主人が訝しげに業平を見つめていたので、業平はやわらかく微笑んでやった。主人はそれを見て安心したようであった。



「中将様、御酒でもお持ちいたしましょうか?」

「ああ。……ではそれを、そなたの妻君に持たせてもらえませんか」


強く目に焼き付いた彼女をどうしてももう一度目に入れたい、そう思ったのである。



「承知いたしました。少々お待ちください」


男は別段気にした様子もなく、一度深く頭を下げて奥へ入っていった。



(まさかとは思うが、彼女は……)


業平は瞼を閉じる。するとその奥には一人の女が映し出される。

業平が今よりずっと若かりし頃、恋仲にあった女性である。

もう何年逢っていないだろうか、業平より幾つか齢を重ねていたが、愛らしい女であった。瑞々しい橘の香を薫き染めていた。業平はそれがとても好きだったのだ。





「お待たせいたしました」


不意に響いた声に思考を中断され、業平は勢いよく顔を上げた。目の前にいたのは、一人のたおやかな女性。以前より年齢を感じさせるものの、その面影はかつて親しんだままである。



「やはり、貴女は……」


業平が女性を見つめて呟くと、女性は不思議そうに首を傾げた。



「どうかなさいましたか?」


女は曖昧に微笑み、業平に盃を手渡し酒を注ぐ。その微笑、仕草、すべてが記憶と合致する。それなのに口から出るのは素っ気ない言葉のみである。



「肴に橘もありますので、どうぞお上がりくださいませ」


皿に盛り付けられた橘の実の放つ強い香が辺りに満ちる。その香に、業平はさらに想いを募らせる。





「まあ、多忙ゆえに貴女をないがしろにしていた私も悪いのですが」

「え、」



業平は美しい曲線を描く眉を歪ませ、溜め息をつく。そして女の細い手首を掴んで引き寄せた。その折れそうな程に華奢な体がビクリと大きく震える。


「貴女も存外冷たい方だ」


耳元に口を寄せて、そっと囁く。薫き染められた香はやはり橘の香である。女自身に染み込んでいるかのように、昔と変わらない。





『五月待つ 花橘の 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする』
(五月を待って花開く橘、その香をかぐと昔慣れ親しんだ貴女の袖の香を思い出します)


「貴女は、思い出されましたか?」




女はその目を大きく見開いた。瞳に映る姿が記憶の中のある一人と重なる。震える唇を必死で堪えてその名を呼んだ。




「業平、様」


呟いた声ににこりと笑みを返し、業平は女から身を離した。



「それでは、さようなら。お幸せに」

「お、お待ちくださいませ!」



女は慌てて業平の手をとろうとするが、業平はスルリとその手を躱す。

小さく呻き声をあげて顔を覆う女を残して、業平はその場を去った。そしてそれきり縁は切れてしまったのである。




「業平、最近夜に出歩かないのだな。珍しいこともあるものだ」


業平の兄である行平が心底不思議そうな、しかし嬉しさを滲ませて言う。業平は苦笑した。


「最近そのような気が起こらないのですよ。残念なことに」

「別によいではないか。これまでが遊び過ぎだ」



行平に小言を言われ、業平は溜め息を吐く。




(忘れられないのは私だ。あの橘の君を……)




風の便りで女が髪を下ろしてしまったと聞いた。

もう二度とあの薫りを纏った美しい人に逢えないのだ。業平は瞼を閉じ、大きく息を吐いた。


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