序
.
「ああ、こんなことをしている場合じゃないよね」
平助は縁側に腰を下ろし、足袋も何も履いていない足を揺らめかせる。
真冬であるにもかかわらず着流しに羽織を一枚という薄着である。
それでも、彼は何故か少し楽しげに薄笑いを浮かべている。
「もう、行くのでしょう?」
平助は問う。
というよりはむしろ断定である。
一は何も返せず平助を見据える。時折吹き付ける北風が二人の髪や衣服を乱した。
「ああ、すまない」
謝罪の言葉が一の口を突いた。その言葉は存外冷たく響いた。
平助の笑顔は最近見ることの多くなった寂しげな、何か諦観するようなそれに変わっていた。
「いやだな、謝ることないじゃない」
平助はいやに明るく笑った。しかし、やはり以前とは何かが違う。
何が平助を変えたのか、思い当たる節が多過ぎて一には判別できなかった。
ジャリ、と不快な音がして平助が庭に降りた。下駄がないからといって素足で地に立つ。
小声で「冷たい」と文句を言うが、それは仕方のないことだ。
「ね、はじめ」
平助は跳ねるように一の前までやって来た。そして一の刀にそっと触れる。
一は一瞬体を緊張させるが、平助に何かしようとする気配を感じなかったため体の力を抜いた。平助はその顔をやわらかく緩めた。
「これを、私に向けるんだね」
表情とは裏腹な悲しげな声音である。一は弾かれたように平助を見た。
平助はその白く細い指先で一の刀をつついている。
ふいに視線が重なる。
至近距離で立っているため、自然平助が見上げる形になる。
「まだ行かなくてもいいの? 待っているのでしょう、土方さん」
肩をトンと押される。
いつもなら揺らぐことのない程弱い衝撃であったが、体がぐらついた。これ程までに動揺しているのかと一は驚きを禁じ得ない。
もう行かねばならない。
しかし、足が動いてくれないのだ。
ただ立ち尽くしていると、平助が溜め息を吐いて外方を向いた。そして元いた部屋へ歩き出す。
「早く、行ってよ」
その言葉に背を押されたように、一は躊躇いなく走り去っていった。
地面を踏み締める足音が聞こえなくなると、平助はもう一度縁側に座り直した。
「これで、みんな、いなくなっちゃった」
どこか明るい調子で歌うように呟く。
その声だけが、深い夜の闇に溶けていった。
平助は思い返す。これまでに得た記憶が自然に頭の中に甦ってくる。それはさながら、走馬燈のようであった。
20081213 彩綺
←
無料HPエムペ!