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恋する111の動詞
攫う
*



北風が次第に和らぎ、花がほころびはじめる弥生の頃。


間人皇后を訪った葛城皇子は下げていた顔を上向きにして間人を見据えた。
間人は告げられた内容にただ目を見開く。

「もう一度、言ってくれないかしら」
「だから、私はここ難波の宮を去ろうと思っているのですよ」

葛城は何でもないことのように告げる。
その面差しを冷酷なものに見せる端整な顔立ちも常のままである。


しかし、実姉である間人は弟の葛城によく似た顔を歪めた。

「何をふざけたことを、皇太子である貴方が京を去ってどうするの? 貴方はその位を捨てると言うの? 暮らしていく所もないでしょう?」

間人が一息にまくし立てると、葛城はさも愉快な様子で笑い声を上げた。

「私がこの身分をむざむざ失う男とお思いですか、姉上?」
「そんなこと、ないけど……」

この葛城の性格は姉である間人が最もよく見知っている。

冷静でありながら、野心家でそれを叶えるための情熱をも持ち合わせている。
そうして蘇我氏を倒し、さらには他の政敵をも滅ぼしてきた男である。



「近江大津の地に都を移します。私はこの難波をあまり好ましく思いませんので。建築もかなり進んでおりますし」

葛城はつらつらと新しい宮の優れた点を上げる。
それを間人の震える声が遮った。

「あの帝も、お連れになるの?」

あの帝、仮にも夫である男のことを間人は他人行儀に呼んだ。
葛城はふむ、と考える素振りをしたが、まもなくあっさりと答えを出した。

「あの方はここを離れるおつもりはないようだから、置いて行きましょうか」

間人はひどく苦しげな表情を浮かべ、もう一つ問いを投げ掛けた。

「では、私は?」

この弟に打ち捨てられ、ここ難波で老いて力も持たない夫と寂しく暮らす。
想像するだけでひどく悪寒に襲われる。

「私だけが、こんなところで一生を送るの?」

自らの体を掻き抱く。
しかし、震える体を止めることができない。



「姉上」

葛城は一段上に腰掛ける間人を見上げ、微笑みかける。

「それは貴女次第ですよ、姉上」
「……どういうこと?」

葛城はその微笑みに含みを持たせる。
そして右の手を間人の方へ差し出した。

「私とともに新しい都へ移りませんか?」

間人は言葉を失った。

仮にも皇后の身の上で、そのようなことは決して許されない。
しかし、心の内では、その手を取って逃げてしまいたいと思っている。



「できないわ、そんな」

伸ばしかけた手を強く握り締める。
俯いて葛城から目を逸らすと、葛城は一つ息を吐いた。

「姉上は臆病ですね」
「だって、怖いわ」

葛城は差し出した右手を下ろそうとせず、ただ間人の決断を待っている。



「私が、必ず姉上を守りますから」

間人はハッと顔を上げた。
その目の前には葛城の強い瞳。
視線が絡まりあう。



間人は一度大きく息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がる。
葛城の前に立ち、差し出された右手に自らの手を重ねると、その手を握り締められた。

「ありがとうございます、姉上」

葛城は相好を崩した。
つられて間人まで苦笑する。

そこには先程までの憂いなど僅かも存在しなかった。



それから数日の後、葛城は間人の他、弟の大海人や臣下の大半をつれて難波長柄豊碕宮を去った。


皇后を奪われた帝はこのような歌を詠んだという。



金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか





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あきゅろす。
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