恋する111の動詞
想う
額田、と呼ぶ。その声が好きだった。
優しく甘く、耳に心地好く響く声だった。
「額田」
本来聞こえてはならない、愛しくて堪らない声が耳に届いた。
(大海人様、)
振り向かずともわかる記憶と寸分違わぬ声音。それでも、額田はその愛しい人の姿を確かめた。
「額田」
再度名を呼ばれ、大きく手を振られる。
「っ……」
こちらからも名を呼びたい。開きかけた口を、すんでの所で噤む。
(人に見られては、大海人様の立場が悪くなる)
深く息を吸って、吐き出す。それでも高鳴る鼓動は治まらない。
額田は大海人を見つめて、目線で嗜める。もしこれが見つかれば大王に盾突いたとして彼が罪を被るだろう。
(だから、もうそんなに見つめないで)
彼からの視線が額田に熱をもたらす。
頭を振って逃れようと思ってもできないのはいまだ醒めることのない彼への想い故。
額田は筆を取り何かを書きつけた。それを近くにいた童に言い付け大海人に運ばせる。
『あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る』
この標野をうろうろしたりして、この野の番人が見たりしないでしょうか。
貴方がそれほど愛しそうに手をお振りになっているのを。
一首だけの簡素な文。伝えたいことは多くあるが、これ以上綴る訳にはいかない身の上に今現在の額田はあった。
童が大海人の元に着いたのを確認し、額田は顔を背けた。自分に背を向けて去ってゆく姿を見たくなかったのである。
草を踏み分ける足音が聞こえる。それだけでひどく胸が痛い。これから幾度このような責め苦に堪えなければならないのか、額田は両腕で頭を覆った。
「額田」
あまりに信じ難くて、動きも思考も停止した。
愛しくて愛しくて、聞きたくて仕方がなかった声、その声が確かに自分の名を呼ぶ。
「額田、こちらを向いて」
誘うように髪を撫でられた。今までに幾度となくこうして触れられた記憶が、額田の脳裏に鮮明に甦る。
ためらうようにゆっくりと振り返る。
目に馴染んだ、ひどく恋しかったやわらかな微笑みを浮かべて大海人が立っていたのに、逆に額田の目には涙が浮いた。
「大海人、様」
「額田、ずっと逢いたかった」
そう言って額田の頬に手を伸ばし、瞳に溢れる雫を拭う。それでもきりがないので、額田の頭を自分の胸に引き寄せかき撫でる。
「このような、いけません」
額田がその体を押し退けようとするが、大海人がそれを許さない。背中に回された腕の力がより強くなったので、額田は息を詰まらせた。
「兄上は遠くまで狩りに行っていらっしゃる。案じることはないよ」
「しかし、私はもう葛城様の妻で、」
額田の言葉を封じるように指を額田の唇に押し当てる。いまだ表情は笑顔、しかし悲しげな色が表出している。
「だから今だけ、こうさせておくれ。人妻である貴女を、これほどに慕っているのだから」
紫草のにほへる妹をにくくあらば人妻ゆえに我こひめやも
この紫草のように匂い立つ美しさの貴女を何故憎く思いましょうか。喩え人の妻であっても、私は貴女を恋しく思っているのですから。
大海人は額田の肩に頭を預ける。今だけ、と心中で言い訳をしながら額田は大海人の背に腕を回した。
二人は耳元で睦言を交わしあい、時には唇を重ねた。
あまりに幸せで、時を忘れてしまいそうなほどに。
しばらくの後、大海人が額田からそっと体を離した。温もりの消えた体を風が冷たく吹き付ける。
「そろそろ刻限かな」
「そう、ですね」
遠くから馬の駆ける音が近付いてくる。恐らく葛城たちのものだろう。早く別れなくては、見つかると大変なことになる。
「今から私たちは他人ということで、……それでは、義姉上」
大海人は何もなかったかのような様子で踵を返し、歩き出した。縋ろうと伸ばした手が空を切る。大海人に追い縋って何をしようと言うのか。
未練も何もないといった態度で真っ直ぐに歩いていく大海人、その姿を見るのが忍びなくて、額田は背を向けた。
「額田、ただ今戻った」
葛城が遠狩りから戻ってきて額田に声を掛けた。しかし額田の顔を見て普段は滅多に崩さない表情を困ったように歪めた。
「額田、何故泣く」
「何でもありませんわ」
「何でもないような顔ではないだろう」
「いえ、いえ、何もございません」
泣きじゃくる額田の肩に葛城がそっと腕を回す。
温もりが違う、それがひどく悲しくて額田はさらに涙を零した。
これで最後だから、泣くのは終わりにするから。
心の内でそう誓って、今だけは、と、大海人を想った。
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