恋する111の動詞
呼ぶ
*
これまでは大姫だけのものであった秘密の特等席。
そこから眼前に広がる大海原を背に、大姫は誇らしげに笑んだ。
「ね、きれいでしょう、義高さま?」
「うん、本当に。綺麗だね」
そう言って微笑む義高を見て、大姫は嬉しくも面映ゆく肩を竦めた。紅く染まる顔を見られぬように俯きながら義高に寄り添うように座る。
「ここはね、わたしだけが知っている秘密の場所なのよ。誰にも教えてあげないのよ」
「へえ、なら何故私に教えてくれたの?」
「もちろん義高さまは特別よ、当たり前じゃないの!」
「ふふ、ありがとう大姫」
義高が礼を言い微笑むと、大姫は大きくて丸い目を弓なりに細めて満面の笑みを浮かべた。
表情を次々と変える大姫の様子は彼女の周囲をパッと明るくする。
それにつられて、鎌倉に来て以来緊張が続いていた義高にもやわらかい表情が増えていた。
初めて二人で海を見た日から、義高と大姫は毎日そこで時を過ごした。
「義高さまはあまり海を知らないのね」
「だって、私は木曽の山奥で山に囲まれて育ったから」
「きそ?」
「そう。ここからずっと西の方、木曽の山の中で私は生まれたんだよ」
懐かしく思い出に浸る義高の着物の裾を大姫は軽く引っ張った。
少し不満そうな顔に義高は困惑する。
「どうしたの、大姫?」
「……義高さまは鎌倉に来たことを悔やんでいるの?」
悲しげに下げられた眉や突き出された口が可愛らしくて、義高は思わず苦笑した。
「そんなことはないよ、大姫にも出会えたし」
そう言って義高が大姫の頭を撫でると、大姫は頬を桃色に染めて嬉しそうに笑った。
しかし、時代の流れが二人の間を裂くのはそれからすぐのことであった。
その日は何故か朝から屋敷中が慌ただしかった。
不思議に思いながらも大姫がいつものように義高の元に向かおうとすると、義高の側近の小太郎に呼び止められた。
「大姫様、少しよろしいですか」
「小太郎、何かあったの?」
「人目を憚りますので……」
小太郎に連れられ義高の部屋に入ると、そこには一人の女房がいた。旅装束を着たその姿は大層美しいものである。
「小太郎、この方は誰?」
大姫は呆然とその姿を見つめる。どこか見たことのある顔立ちである。
「大姫、嫌だな、見られてしまった」
困ったように笑う顔と声は、当然のように毎日慣れ親しんだ少年のもの。
大姫は確かめるようにその名を呼んだ。
「義高、さま?」
「ごめんね、見苦しい姿を見せて」
大姫は無言で首を横に振って否定する。どこか辛そうな表情が妙に気にかかった。
「小太郎、何がどうしたのか、ちゃんと教えて」
小太郎は言い辛そうに何度か口を開き、そして大姫にとって余りに信じがたいことを口にした。
「お父さまが、義高さまを……」
大姫は唇をわななかせた。大姫に甘いあの父が、姫の許婚の義高を殺そうとしている。小太郎はそんなことを言うのである。
「うそよ! 何でそのようなこと!」
大姫は不吉な考えを打ち消すように首を大きく振る。尼削ぎの髪が扇のように広がるのも気にせず、ただその言葉を否定する。
「私の父がね、殺されたんだ」
「え……」
義高の言葉に大姫は言葉を失う。
義高は衣の袖で溢れる涙を拭う。大姫は七歳の少女であるが、義高もまだ十一歳の少年なのである。
「このままだと義高様も危のうございます。だから、ここから逃げることになったのです」
小太郎の言葉に大姫はしきりに首を縦に振る。その瞳に収まりきらない涙が一筋二筋と頬を伝い落ちた。
「いや」
「大姫、泣かないで」
涙を拭おうと伸ばされた手を大姫は強く握った。義高は堪え切れない様子で顔を歪める。
「義高さまが死んじゃうなんて、いや」
両手で顔を覆って泣きじゃくる大姫の体を義高がやわらかく包んだ。
衣に薫き染められていた女物の香がその動きに合わせて辺りに漂う。
「泣かないで、大姫」
「だって、いやなんだもの」
しゃくり上げる大姫の背を義高は軽く叩いてやる。
あやすように流れるような口調で大姫を諭した。
「大丈夫だよ、大姫。私は必ず大姫の元へ帰ってくるから」
「本当に……?」
「もちろん、約束する」
「絶対よ、約束だから」
幾度も幾度も確かめる大姫との名残を惜しむように、一度優しく頭を撫でてから義高は立ち上がった。
「それでは小太郎、後のことは頼んだよ」
「かしこまりました」
義高は彼と同年である側近の少年の肩を叩く。小太郎は一瞬悔しげに表情を歪めたが、主を勇気づけるかのように頼もしく笑顔を作った。
「義高さま、私いつもの場所でずっと待っているから!」
「わかった、すぐに迎えにいく。だから、大姫はいつも笑って待っていて」
義高の言葉に大姫は精一杯の笑みを浮かべた。
涙にまみれていつも通りとは到底言えぬものであったが、義高は満足げに頷いた。
毎日大姫は海を眺めて暮らしていた。あれからすでに多くの時が経っていた。
「義高さま、あいたい」
いくら呟いても返ってくるのは波音ばかり。
大姫は毎日朝早くから日が暮れるまでその場を動かずにいた。
「義高さま」
「義高さま」
「義高さま」
幾度となく紡ぎ出されるのは愛しい人の名ばかり。
その呟きも由比ヶ浜に打ち付ける波の音に、ただかき消されていった。
「大姫はどこへ?」
「いつものところにおいでです」
「……そう」
大姫の母、政子は深く溜め息を吐いた。
「まだ、あの子は義高を待っているのね」
そう、あの後ほんの数日後のことである。
義高は入間河原で追手に見つかり、若い命を散らしたのである。
その事実を何度伝えても大姫は聞く耳を持とうとしない。
そしてひたすらに、義高の帰りを待ち続けている。
「どこで、間違えてしまったのかしら……」
海を臨む高台を眺めながら、政子はぽつりと洩らした。
もう、あれから五年になるのだ。
「義高さま、義高さま、……義高さま」
少女の幼い声で幾度も名が呼ばれる。今にも消えてしまいそうな、弱々しい声で。
義高さま、淋しいです。
貴方がいなくて、淋しいです。
だから、はやく、わたしのところにかえってきて
その声は、儚く波の間にとけていった。
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