恋する111の動詞
絡める
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「嫌いよ、貴方なんか」
「説得力が御座いませんよ。そのように物欲しげな御顔をなさって」
臣である藤原房前のそれにふさわしくない射抜くようなまなざしから氷高は目を背けた。
そうでもしなければ、どのようなことを口走るかわかったものではない。
「そもそも、そなたは何の用があって参ったの?」
房前はくすりと笑みを零し前へとにじり寄った。
じり、と二人の距離がほんの少し縮まった、たったそれだけのことに氷高の体は揺れ動く。
「そのようにおっしゃるては心外ですね、私は貴女の内臣で御座いますよ。今後の政治について、少々お話に参ったのです」
「ならば、もう少し離れてちょうだい。これでは話そうにも話せないわ」
今までに経験したこともないほど近くに顔がある。吐息がかかりそうな距離を恥ずかしく思い、氷高は思わず俯いた。
それを見て房前はくつくつと楽しげに笑っている。
いちいち癪に障る男だ、と内心頭を抱える。
「うぶな御方だ。まったく男を知らぬと見える」
「この身の上では、当然のことだわ」
未婚の、異性と交わったことのない身体で皇位についた氷高はその身を清浄なまま保たねばならない。
そう、保たねばならないのだ。
その禁忌が破られんとする危機感を、氷高はこの男から感じ取っていた。
「いいから、早く離れて」「嫌だ、と言ったら、どうなさいますか?」
スッと房前の右手が氷高の頬に触れ、氷高は体を大きく震わせた。
丁寧ながらどこか怜悧な印象を与える声音に対して、その手は殊の外優しい。
危険だ。と、頭が訴えかける。
これ以上近くにいては、何が起こるかわからない。
なのに、この手を振り払うことを躊躇してしまうのは何故だろうか。
氷高は眼前に大きく広がる房前の顔を見つめた。
目は切れ長な印象であったが思いの外睫毛が長い。鼻筋は真直ぐ通っており、薄い唇は三日月形に笑みを形作っている。
本当に見目麗しい男だ、としみじみ思う。
「どうかなさいましたか?」
ぼんやりと考えごとをしていたところに唐突に声がかけられたので、やたら過敏に反応をしてしまう。しかも考えていた内容が内容だ。
「な、何でもない!」
「ふうん……」
房前は少し不満を表情に滲ませ呟くが、ふいに楽しげに破顔して顔をさらに氷高に近付けた。
「な、何を……」
「そのように熱いまなざしを向けられると、私のような男は勘違いしてしまいますよ」
房前は氷高の耳元で小さく囁く。
吐息が氷高の耳や頬を掠め、そこに体中の熱を集めたかのように顔がかっと熱くなる。
駄目、駄目、駄目!
頭の中の警告が何より早く氷高の体を動かした。
「離しなさい!」
氷高は房前の両肩を強く押して拒絶する。しかし、やはり女の力では房前との距離をとることはできなかった。
「嫌です」
今度はきっぱりと言い切られる。
頭の後ろに腕を回され、引き寄せられる。自然房前の胸に飛び込む形になる。
氷高は体を強張らせ息を詰まらせる。
「……と、言いたいところですが」
その言葉とともに房前の腕の力がふっと緩む。
氷高はようやく息をひとつ吐いた。
「貴女のような純な御方には少しばかり刺激が強かったようですね」
房前の腕が氷高の髪を揺らしながら離れていく。
酷く安堵するとともに一抹の寂しさを感じる。いけない、と自分に言い聞かせ、数回頭を振ってその気持ちを打ち消す。
「今日のようなこと、金輪際許さないから」
気を抜けば震えそうになる声をぐっと押し殺す。
その様子を見て房前はさらに楽しげに笑んだ。
「ああ、それなら私はもう貴女の元へ二度と参らないことに致しましょう。……それで、よろしいですよね?」
本当に卑怯な男だと実感する。
今や政治の中枢を担う藤原氏、次男でありながらその中で最も有能な政治家である房前が不在ならば、朝廷は混乱をきたすだろう。
「本当に質が悪い……。そういう訳にもいかぬでしょう、そなたのような立場で……」
「そうで御座いますよね。それでは、また参ります。寂しいでしょうが、待っていて下さいね」
捨て台詞のような言葉を残して房前は退出していった。
残された氷高は言葉を失い呆然と房前の背を見送るばかりである。
「もう、どうすればいいのよ……」
帝としての自分は必死で房前を拒んでいる。
それなのに、氷高という一人の女としては、そのまま受け入れてしまいたいと思っている。
こうしていつしか、あの男に体も心も絡めとられてしまうのではないか。
そんな確信にも似た予感が強く氷高を襲った。
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