こうして最後の夜が更ける 湿り気を多く含んだ空気が辺りをどんよりと包む。 微かに吹く風も生温さを運ぶだけで、人を不快にするばかりである。 しかし、この日の前川邸にはさらに不穏な空気が流れていた。 永倉新八は蔵から出ると、一息ついて流れ落ちる汗を袖で拭った。 中は酷い暑さだ。 それは単に夏だから、というわけではない。 「新さん」 声の方向に顔を向ける。 そこにいたのはよく見知った二十歳そこそこの青年、藤堂平助であった。 いつもの明るく弾むような声音と異なり、どこか沈んだような笑みを浮かべている。 「平助」 「中、どう?」 あまりに短い、端的な質問である。 しかし新八はその内容を瞬時に理解した。 「何も進展はなし、ちっとも吐きやしない」 新八は決して蔵の掃除やら整頓やらをしていたわけではない。 中で行われているのは尋問、さらに言えば拷問である。 新八ら新選組は尊攘派浪士が京の町、さらには御所を焼き討ちしようとしているとの情報を手に入れ、それに荷担していると見られる古高俊太郎という男を捕らえた。 さらなる情報を得ようと彼らは古高を取り調べた。 どうしても口を割らない古高に痺れを切らした土方は、彼に対して責め苦を与え始めた。 その拷問が行われているのが、たった今新八が出てきた蔵なのである。 中の光景を思い出し、新八は一つ身震いをした。 それを見た平助が新八の袖を引く。 「新さん、大丈夫?」 「何がだ?」 「いや、大丈夫ならいいんだけど」 平助は唇を引き締め俯いた。 顔は蒼白である。 「平助こそ、顔色悪いぞ。大丈夫か?」 「ん、平気。ちょっと想像しちゃっただけだから」 ああ、と新八は納得する。 新八はこのような状況に慣れているが、蔵の中の凄惨な光景や鼻をつく鉄の臭いには顔を背けたくなるものである。 ましていくつか人を斬る場面も経験したとはいえ、まだ幼くて純粋な部分のある平助には辛いものであるのだろう。 そのため平助は年が若いのもあるが、幹部でありながら蔵に入る役目からは外されていた。 「じゃあ俺にはあまり近付かない方がいいな。ひどい格好だ」 汗で濡れた着物にはいくらか血が飛び、全身にその臭いが染み付いている。 新八は申し訳なさげに頭を掻き、身を翻した。 そろそろ中に戻らないと土方さんにどやされるな、と新八は戸に手を掛ける。 しかし袖を強く握られ、新八は動きを止めた。 「新さん、私は大丈夫だから。ごめんね」 平助は何かを払うように首をぶんぶんと横に振った。 それに合わせて高い位置で結った髪の毛が左右に大きく揺れる。 「私も中に行く。これじゃ情けないもの」 口を強く引き締め、平助は新八を押し退け戸に手を掛けた。 その手は躊躇するように一旦動きを止めるが、覚悟を決めて一気に戸を開け放った。 「う、わ……」 ひどく澱んだ空気、薄暗い部屋に浮かぶ逆さ吊りにされた男の姿に平助は息を詰まらせる。 逆流しようとする何かを必死に押さえながら平助は二三歩後退り、そしてすぐ後ろにいた新八にぶつかった。 「ほら、無理するなって言ったじゃないか」 新八がからかうようしながら平助の身体を支えると、平助は不服そうに頬を膨らませた。 しかしすぐに眉を下げ、肩を落として息を吐いた。 「やっぱり、私って頼りにされてないかな」 まだまだ子供だし、平助は呟くとさらに眉を下げ情けない顔になる。 新八は平助の髪を掻き撫でた。 「この様子だと、もうすぐでかい捕物になる。そん時に、お前が餓鬼じゃないことを見せつけてやれ」 最後に軽く額を弾き、新八は蔵の中へ向かう。 「ありがと、新さん!」 新八の背に叫ぶと、戸の先から手だけが振り返された。 平助は腰の刀を抜き払い、大きくブンと振った。 その切っ先を見つめ、不敵に笑む。 池田屋事件まで、もう間も無く。 . #→ |