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お前が、帰ってきた
お前が、昔と同じ名を呼んだ
お前は何も知らないまま、あの時と同じ目を向ける。








襲う欠伸を殺すように、点滅する青信号を駆け抜けた。外気は申し訳なさそうに寒さに揺れて、そっと袖を掴む。明るい月はぼんやり光り、薄い雲にかくれんぼ。吐いた息に眼鏡が曇る。雑踏の音が増えてきた事を確認して、腕時計を盗み見た。

一介のサラリーマンというものは、難儀なものだ。ロクに出ない残業代に恭順し、こうべを下げて疲れ果てる。安い賃金でコキ使われ、恐ろしいタクシー代にバスターミナルまで全力疾走。
やり甲斐がある、とか、これをするから自分は生きている、とか、そういうカッコイイ概念を仕事に持たない事を覆せば少しは変転するのかもしれないけども。何かを得る、っていうのは簡単じゃないし、何を変える、っていうのはもっと簡単じゃない。変遷なんてない事実に、昔は打ちのめされたものである。
痛みを知った時代は臆病に、ただ時間だけが流れていく。



「はー…間に合った……」

一昨日取り逃がしたバスは到着約五分前。苦手なデスクワークに精を出したかいがあった。
もう一度袖をめくってみる。見たい番組はあと一時間後、献立を考えてみるけれど、連想すると億劫で。ベッドに手足を投げ出して、ビールでも飲みたいものだ。肴は、そうだな、面倒だから冷や奴で良い。
コンビニを予定に入れて、暇な時間を持て余し、ゆっくりネオンに目を向けた

──時、だ。




「金──時ぃー…?」



脳天から雷が降ったような、打たれたような。指先が小さく痺れ、輪切りの胡瓜のようにポッカリ空いた口は息の仕方を忘れた。脳が震える。目が霞む。胸が揺れる。
物静かな現代に、際立つ綺麗な下駄の音。振り向くな、振り向いちゃいけない。呪文のように反芻して、言い聞かせる──いや、言い聞かせたかったのだ。認めたくはなかったし、認めてはならなかった。俺の中で確かに薄れていた何かが、濁流のように流れに乗る。
変わらない、温かい体温が肩に当てられて目眩がした。

「お、やっぱり金時!返事くらいしーや」

成長も、退化もしない。アクセントにサングラスが増えたあいつは、過去の時代を嘲笑うようにはにかんでみせた。
いよいよ呼吸は止まって、寒い外気と冷や汗がコントラスト。奴の呼吸が、奴の瞳が、奴の存在が。情報のように頭に流れ、もれなく痛覚神経をマヒさせる。
俺は、この感覚を知っている。俺は、この感情を知っている。
俺は、俺は──

濁流に乗って流れてきた何かに動かされるよう、俺は何年ぶりかにその名前を口にした。



「──たつま」


お前が、帰ってきた
お前が、昔と同じ名を呼んだ
お前は何も知らないまま、あの時と同じ目を向ける。


変遷なんてない。だから会いたくなんてなかった。けれども俺がどれほどお前に会いたかったのかお前は知っているか。


「久しぶり、やのう。元気そうじゃな。安心した」
「…そうだな」

はにかんだお前は下らない事を言い始める。どれが本当でどれが嘘なんて、履き違える先に未来なんてきっとない。繙いてみればその表面は薄い薄い取り繕いで。不安定なそこに何かを寄せるくらいなら、俺は最初から傷付く方を選ぶよ。
哀しいなんて言わない。
苦しいなんて言わない。
けれども俺は捨ててきたとも言わない。
ただ。
許さないとは、言わせてくれ。


なあ、たつま。
俺は変遷される事が摂理だと思ってお前と過ごした時、お前は勘違いだと嘲笑った。突然消えたお前の背中を訳を、今はもう知りたくない。

本当はあの日以来、お前の事なんか思い出しもしなかった。もう夢にも出なかった。名前を呼んだ声も、頭を撫でた手も、冷えた瞳も。今目の前にして、笑い出しそうになった。
ああ、ああ。そうか。馬鹿らしい。一寸違わない風貌に、俺は懐旧していたんじゃない。
共感していたのだ。
馬鹿らしい。ああ馬鹿らしい。

(──どうして、)

どうして名を呼んだ。どうして存在に気付いた。どうしてそっとしておいてくれなかった。
何も考えぬまま、全部ベッドに投げ出すつもりだったのに。
何かを捨てるつもりはない。けれども俺は分かってた。お前にとって今日の感興なんて、昔捨てた相手に眼鏡のアクセントが付いていただけ。

俺はお前さえいればよかったなんて言わないし、世界に満ち溢れてる事物も知ってた。お前に依存した事なんてないしそれに柔順した事も従順した事もない。けどもその暗く長い何かの中でお前に捨てられたあの日、俺はようやく独りである事に気が付いたのだ。
なあ、お前は知っていたんだろう。それでも俺はなのに、なんて言いやしない。痛むあの時代は、俺に何も与えてはくれなかったけれど。

あの時と同じ冷たい瞳は、今日も俺を突き放す。
そこに痛みを感じるくらい、俺の心は戻ってきた。


「──本当、久しぶりだな、……辰馬、」






俺はあの時のお前を許さないし許せない。
なあ、俺がどれほどお前に会いたくなかったか知っているか。
なあ、俺がどれほどお前に会いたかったか知っているか。

こんな問い掛け哀しすぎるのなんて知っているけれど、いつかこうなる事、俺はずっと待っていたのかもしれないな。







お前が、帰ってきた
お前が、昔と同じ名を呼んだ
お前は何も知らないまま、あの時と同じ目を向ける。

俺はゆっくりお前を振り返った。

END












THE LOVE/再会
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