short
スプーン一杯の砂糖じゃ、とても足りない.1
※パロディ
※呂佳と利央が赤の他人同士
あーあ、と利央は呟く。
一向に止まない雨を見上げ、利央は壁にもたれようとし、背中に妙な浮遊感の後、ふわりとそのまま後ろに倒れこんだ。
スプーン一杯の砂糖じゃ、とても足りない
利央は不思議そうに空を見上げた。
路地裏に入ったため暗くなったのかと思っていたのに、空がだんだんあやしい色になって来た。
そう思った瞬間何の前ぶりもなく、土砂降りの雨が彼を襲った。どうせ通り雨だろう、と利央は冷静に雨宿りできそうな屋根の下にもぐりこんだ。
しかし雨は弱まるどころか激しさを増し、利央の体温を奪っていく。肩にかかる小さなカバンの中に、折り畳み傘は入っていない。
天気予報見るのを忘れたオレが悪いのか。たまの休みにちょっと路地裏散策でも、と思ったのが悪いのか。
後の祭りである。
やれやれとため息をひとつ落とし、利央はじっと雨粒を見つめた。
コンクリートの上では、あっという間に水溜りが出来上がる。そこに落ちてきた雨が、ピシャッと利央の靴に跳ねた。利央はつま先を軽く振って、水滴を払いのけようとしたが、水分を含んで重くなった靴は利央の気分をさらに重くするだけであった。
あーあ、と利央は呟く。
一向に止まない雨を見上げ、利央は壁にもたれようとし、背中に妙な浮遊感の後、ふわりとそのまま後ろに倒れこんだ。
「えっ」
倒れる。
ということはなかった。
背後から伸びた太い腕が利央の身体を支えていたのだ。
「え、何っ、誰」
「お前が誰だ」
焦った甲高い利央の声とは反対に、もう一人の低い声色には呆れが混じっていた。体格の良い男は、ちっという舌打ちと同時に掴んでいた腕を離して後ろを顎で示す。
「店の入り口塞がれちゃ困る」
アンティーク調の看板に、いかにも喫茶店ですというメニューが踊っていた。利央が壁だと思いもたれかかった場所は、店の入り口だったのだ。
男の威圧感に圧されて顔を曇らせた利央だったが、次の瞬間にはドアから覗く店内の様子に目を輝かせていた。
「ねえ、何あれ。近くで見てもいい」
「おい、普通は謝るとか、なんかあるだろ。まあいいや、あれってどれだ。ったく」
きらきらと自分を見つめてくる利央に、男は呆れた様子で中へ入るよう勧めた。
ドアを開けると、綺麗なベルの音が響いた。どこにでもある喫茶店と同じようにカウンター席があり、いくつか並ぶ机にはそれぞれ異なるテーブルクロスがかけられている。優しい照明の色だったり家具だったり、洒落た雰囲気の店内の奥に、ガラスケースがひとつ置かれていた。
利央は、中に入るなりそのガラスケースの元にぱたぱた駆け寄った。
「テディベアだ。かわいー」
そこには、ふわふわの体に赤いリボンが首に巻かれた、30cmほどのテデイベアが収まっていた。それを一心に眺めるふわふわの金髪に、男は一瞬噴き出しそうになった。
「ただのクマじゃねえぞ」
男はそう声をかけると肩に着いた滴をはらい、カウンターへと入っていく。
利央は、暫くしげしげとテディベアを見つめていたが、男の言葉の意味はよくわからなかった。
「うわっ」
飽きもしないで、よくそんなに見てられるな。その言葉とともに、利央の頭にタオルが被せられた。
「床が汚れる。早く拭いてくれ、濡れネズミ」
ありがとうと言いかけ、しかしカチンときたのか、利央は男に言い返した。
「一応、オレって客なんじゃないのぉ」
「はいはい、客ね。じゃあこっちに来い」
男は利央の背中を押して、カウンター席へと座らせた。向かい側に立つと、無愛想な顔から急に優しい表情に変わる。
「とりあえず、寒いだろ。温かいもののほうがいいだろ」
メニューを片手に、男は利央にそう言った。
「コーヒー一杯二百円。うちで一番安いのはそれ」
利央は申し訳なさそうに呟いた。
「苦いの飲めないもん」
「あっそ。ガキ」
「う、うっさいっ」
男は、からから笑った。先ほどといい、利央が感情を隠そうとしない様子が、だんだん面白くなってきたらしい。
「ラテにしとけば。クリーム多目に入れてやるから」
「じゃあ、そうする」
カップを手に取る眼差しが優しく、利央は自分が勝手に熱くなっていたことが、だんだん恥ずかしくなり、顔を背けた。店内を一周見回し、利央の目は再びガラスケースで留まる。テディベアは単純にかわいいだけでなく、優しさが溢れているように利央には感じられた。
そんな利央をちらりと見て、男はそっと声を発した。
「そんなに気になるか、あれ」
利央は頷いただけで、そこから視線を動かすことはなかった。
そーか、と男はいたずらっぽく続ける。
「あのクマすげーんだぜ」
そういえば、さっきも同じようなことを言っていたなあ。
「あれはな、100万円するクマなんだ」
利央は驚いて、男に振り返った。
「ひゃっ、ええっ」
「わりい、冗談言った」
なんだよ、びっくりさせて。からかわれたのか、と利央はむっとして男を見た。男は苦笑しながら言葉を紡いだ。
「本当は、50万くらいだったかな。もう忘れちまったけど、そんくらい」
「バッ、50万だって大金じゃんっ」
「おい、今お前、バカって言おうとしただろ。聞こえてるぞ」
利央の前に、カップが差し出された。その中には、見事なクマが描かれている。
「すごいじゃんお兄さん、これ、あのクマでしょ」
「別にあのクマじゃねえよ。ラテアートのクマなんざ、どこも大体同じだろ」
つーか、お兄さんって気持ち悪い。
えー、じゃあ、ていうか。
「オレ、利央って言うんだけど、お兄さんの名前は」
「仲沢呂佳だよ」
「じゃあ、呂佳サンね」
「なんであえて、下の名前をチョイスするんだ」
「だってオレも、苗字仲沢だもん」
なんとなく居心地の良いその喫茶店を気に入った利央は、時々そこでカフェラテを飲むようになっていた。
そして今日もまた、利央は呂佳の店を訪れていた。学校からそのまま来たため、制服のまま肩に鞄をかけた姿でドアを開く。その姿を見た呂佳は顔をしかめて、似合わねー、とわざと利央に聞こえるように呟いた。
「似合いますー。呂佳サンって、なんでそういつも意地悪なんだよォ」
「だってお前、いつもここに来るとき、私服じゃねーか」
しかもいつも子どもっぽい格好。
呂佳が付け足した言葉に利央が突っかかるのは、毎回のことである。他の客が居るときは、あまり利央をからからないようにする呂佳だが、今は誰もいない。毒舌、というよりは本当に面白がっているだけのその言葉の数々に、利央はむず痒いような気持ちを抱くようになっていた。
「呂佳サン、クマ描いてー」
「わかったから。おとなしく待ってろよ」
相変わらず、彼のこの態度はなんだ。自分を客と見ていない、と利央はそっぽを向いた。テディベアはガラスケースの中で、黒い瞳で利央を映している。
なぜ、呂佳さんは、こんな高価なテディベアを買ったんだろう。
何度そう聞こうかと思ったかわからない。けれど利央は一度も呂佳に聞いたことはなかった。その質問を、無言で拒否されているような気がしたのだ。
「ほら。出来たぞ」
「ありがとー」
カップの中のクマは、飲むのが勿体なくなるくらいかわいらしかった。利央はカップに口を付けかけて、くすりと笑う。
「あ、なんだよ」
「だってなんかさぁ、毎回これ飲んでるけど、その度にどんどんかわいくなっていくんだもん。勿体ないなって」
利央はそう言って、呂佳に笑いかけた。呂佳は舌打ちをひとつ落として、後ろを向いた。
「お前のせいだろうが」
「え、オレのせいなのっ」
いや、なんつーか。
「お前がいつもクマ描けって言うから、そりゃあ何遍も描いてれば、自然と上達していくだろうが」
「よかったじゃん」
はやく飲んでしまえ、と呂佳が言うので利央はそれに従った。相変わらず美味しいそれは、利央の顔を自然と明るくさせた。
「おいしい」
「そりゃよかった、って、うわ。お前なあ」
利央の声に振り返った呂佳は、しかめっ面から一転、噴き出した。
「ガキだなあ、ほんとに」
呂佳は、笑いながら利央に手を伸ばした。利央は、呂佳が急に近付いてきたことにぎょっとして、強く目を閉じた。
唇の端に指が触れる。
目を閉じていた利央は、その感覚に頭が熱で侵された錯覚に陥った。
暖かい指だなあ。呂佳さんの指なんだ。
たった一瞬の間に考えることができたのは、これくらいだった。
「おい、どうした」
一度だけぎゅっと押し付けられた指は、少し横にスライドしてすぐに離れる。なおも目を開けない利央に、呂佳は怪訝そうに声をかけた。
「あ、うん」
利央は、はっとして目を開き、呂佳の指を見て、彼の突然のこの行動に合点がいった。苦しいくらいの熱が冷めて、消えていく。小さな喪失感に痛んだのは、心のほんの端だけだった。
「クリーム取ってくれたんだね」
「利央のさ、ビン牛乳飲んで、ひげ作ってるところが目に浮かぶわ」
失礼な、でも、オレのことを、考えたりするんだね。
頭の中で考えていた言葉は途中で迷子になった。
「誰にでも、そうすんの」
呂佳が、利央の唇を拭った指で紙ナプキンをつまんだ。
「何が」
目の前で白いクリームが拭われて、利央は思わず自分の服の裾をぎゅっと握り締め、うつむいた。
「なんでもない」
愛想笑いを浮かべ、利央は呂佳の元から走り去った。
「くるしー。何これ」
家に駆け込んで、ベッドに潜り込む。布団の中で蹲り、枕を抱きかかえた。
「やだなあ、気持ちわるい」
吐きそうだ、全部。せっかく呂佳サンがクリーム多目にしてくれたのに。超甘いのに。ゲロ甘クリーム。あれのせいだ、砂糖控えめにするべきだ、呂佳サンなんて、知らない。拭うくらいなら、指とか使わなきゃいいじゃん、最初から紙ナプキン使えばいいじゃん、なんであんなに近付くのさ、だってさ、わけわかんなくなるじゃん、なんでこんなにぐるぐるしてんの、どうせオレしかこんなんなってないのに、呂佳サン、オレは単純なんだよ、あんたがいつも言ってるみたいに、ガキなんだよ、だって。
キスされると、思ったんだから。
「どうしよう、オレ」
呂佳サンが、好きだ。
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