[通常モード] [URL送信]
枯渇した涙と声に寄生する華の気高き末路の行方を
これの続き



「虎口を逃れて竜穴に入る」

一難去って、また一難。簡単に言えば、そんな意味の諺を口にしたのは、他ならぬ岸谷新羅という闇医者だ。既に通話の切れた携帯電話を未だ耳に押し当てたまま、呆然とする静雄に向けて、それは告げられた。来年の干支である辰を敢えて用いた言葉にしたのは、ささやかな彼への当てつけだったのかもしれない。辰という文字のある諺はないので、竜を使ったのもまた故意である。
少し前の話をしよう。臨也が静雄に拳銃を向けて放った、あの年の変わる大晦日から元旦への間。そうして相対した臨也の銃からは、実弾は発砲されなかった。覚悟を決めた後のそれが、あくまで撃ったフリということに静雄が驚いて目を見開いていれば、やがてそこにパトカーのサイレンが聞こえて来る。静雄は再び逃げようと後退るものの、臨也はそんな彼へと自分のコートを被せるのだ。

「そんな服着てるから、すぐに見つかるんだよ」

笑い混じりにも、そう言って。そして同時に、さも必要ないと告げるかのようにして、弾のない拳銃も投げた。サイレンの鳴り響く方向に臨也は走り出し、たったそれだけの後で年の始めを去っていく。静雄は被されたコートの裾を握り締めたまま、フードで隠しながら反対側へと走り逃げた。
それから彼はまず新羅の家へと逃げ込み、今はその一泊した後になる。着信のあった携帯は本来臨也のもので、その当の本人から渡されたコートに入れっぱなしになっていたものだ。始めに出た九十九屋が何故臨也といるかなど、手を組んだからというのは静雄にですら明白になる。そして、この弾のない銃は必要なく、次は実弾を用いて殺しに来ることまで。
彼は手にしていた携帯電話を再びポケットへとしまい、無言に立ち上がる。新羅の発言から、これ以上この場所にいれないことは理解していた。静雄はこれから逃げ続けるしかない。もしも人間らしい感情のみを持ち合わせているのならば、誰だってそうするだろう。結局、それから一言も口にしないまま、彼は新羅の家を出て行った。たった一つの宛てだけを道しるべに。
とにかく静雄が向かったのは新宿にある臨也の自宅だった。それは会いたいからなどではなく、ただ単に借りたコートを返したかったから。警戒を怠らず、人がいないことを確認した上でそこに入ろうとしたにも関わらず、ちゃきりと嫌な音。まさに撃鉄を起こすという映画のような動作音に、彼は思わず動きを止めた。後頭部を狙って押し当てられた銃口に、それが誰かなど当然判る。たった一人しか、いないのだから。

「やあ、シズちゃん。今月は君の誕生日だよね。プレゼントは何がいい?」

流暢な口が一言を区切る呼吸を合図に、静雄は振り向きながら銃口を手で逸らせ一気に後退した。並々ならぬ脚力があるからこそ成せる芸当を前にしながらも臨也は笑っていたが、静雄が近くにあった標識を抜いた瞬間に、少しだけ歪む表情を彼は知らない。臨戦体勢を向けては怒号の代わりに大声を上げた。

「鉛弾だけは御免だな!」

次に会った時、臨也は彼を殺すであろうと静雄は先程の電話から推測していた。殺らなければ殺られる。そんな生死の狭間に立つなど、彼自身一生訪れることはないだろうと思っていた。もしも神様が本当にいるのなら、とことんこの両者を引き合わせたいらしい。だが、今にも反撃を繰り出しそうな静雄を見つめていた臨也は、その向けていた銃を下ろす。判っていたとしても、それが必ず真実ではないことを知らせようとしている。臨也にとって、静雄は二人いた。そのどちらかを取らなければならないのなら、会いたい方を掴もうとしているのだ。

「シズちゃん、君は一つ誤解している。これは確かにこの間のとは違って実弾が入っているけど、何も君を殺す為じゃないし、こんなもので君が死ぬとも思っていない」
「手前の言うことなんざ信じられるかッ!」

けれど先入観ばかりに囚われて、静雄は目の前のことしか信じられない。今まで培われて来た全てによって折原臨也は出来ているのだ。それをこんなところで容易く覆せない。ぎりっと歯を噛み締めて睨みつける静雄を宥めるには、これしかないと理解していた。投げ出した拳銃はカラカラとコンクリートを滑り、静雄の足元へ。差し延べられたのはたった一つの掌。

「逃げるんだろう。だったら一緒に逃げようよ」

そんなことを言われるなんて、彼は夢にも思っていなかった。誰も、友人ですら見放した彼を、仇敵だけが助けようとしているのだから。

「俺はプレゼントに、道をあげる」

握り締めていた標識を落としてまで泣きそうになったのは、恐らく人からそう言われることを望んでいて、けれど誰もくれなかったから。静雄は人一倍、人間らしい優しさに弱い。だが仇敵である臨也の手をそうやすやすと取れるはずもない。食いしばっていた歯はやがて唇を噛み、足は踵を返して逃げようとした。どうせそれすら残酷な罠なのだ。彼は嫌と言うほど、今までからそれを理解している。しかし、足が止まるほど強く握られた腕の先に臨也は立っている。追いかけられたその手を振り払う理由はいくらでもあった。それでも、彼は振りほどけなかった。心の何処か奥に、臨也のそうして矛盾した気持ちと同じものがあった所為で。その後逃げ出したのは、たった一人ではなく二人だったのだ。
それからホテルを転々とし、日は流れる。臨也の名前を使えば足がつくこともなく、逃亡生活は容易だった。元々そうした行為が得意な臨也と共にいれば、一生平和に暮らせるのも夢ではない。そう静雄には思えた。いつか本当に田舎で穏やかに暮らせたらと。夢を見ていた。それは幸せになる夢だった。
――だったらこれはなんだ。
幸せを違えていることに気付きながら、人間らしさを求めて生きていく。そこに臨也がいる。幸せとは掛け離れているはずの全てが矛盾している。このままではいられないことなど判っていた。簡単なことだ。また仇敵に戻ればいい。
明くる日、朝早くに電話をしていた彼を臨也は気付けなかった。それが一般人を装っての警察への通報だということも。久しぶりに街へ出掛けようと言ったのは静雄の方だった。この先の人のあまりいない公園にて待機する警察を見つけ、臨也は静雄の服を引きながら後退る。

「警察だ。此処は逃げ……シズちゃん?」

だが、静雄は止まらない。いっそ巻き込んでしまうことすら考えたのに、彼はそれが出来なかった。臨也を付き合わせてはならない。そればかりが頭を駆け巡っていた。真っすぐに警察官の蔓延るそこを目指し、歩み寄る静雄へと向けられた数え切れない銃口。それは一つの呼吸すら奪う。

「凶悪犯、平和島静雄だな!場合によっては射殺の許可も出ている!止まらないと撃つぞ!」
「撃てるもんならな」
「……撃てッ!」

走りかけた足は止まる。次々と撃たれていく最強の男の姿を、臨也は目の当たりにしていた。人並みに血が溢れた。化け物だと思っていたそれは、身体中を穴だらけにされるように撃ち抜かれていく。まるで弱い人間のようだ。

「違う」

首を振る臨也に、警察は目の前の者ばかりで気付かない。殺したこと、此処に立つこと、逃げ出したこと。何もかもを静雄は静雄のままに生きていた。それを否定し続けた臨也が今更肯定を見つけて叫び出す。

「違う!シズちゃんは……!」
「臨也」

血だらけになりながら振り返った静雄は、唇にそっと人差し指を当て、笑った。

「悪かった、な」

それは謝るような笑顔だった。やがて止まった乱射を最後に、彼は崩れ落ちるようにして倒れる。あの平和島静雄を倒したと歓声の沸き上がる警官達を尻目に、臨也は逃げ出した。何も言わないことを告げられ、全うする為に。
やがてまた幾らかの日数が経つ。臨也は笑って撃ち殺される静雄を助けたかったのか、殺したかったのか。未だに判らないでいた。彼は奇跡的に生きているらしい。今はもう常人ほどに元気になり、収容所にいる。刑がどうなったのか、情報屋は誰よりも早く知っていた。誰にも捕まえられることのなかった静雄が牢獄に立ち尽くし、そんな彼を臨也が訪ねて来たなら笑われるだろうか。

「何の用だ」

面会にやって来てみれば、静雄は相変わらず不機嫌だった。囚人服に身を包みながらも、その姿は何よりも屈強である。それを臨也は知っている。何処かでそんな末路を九十九屋が笑っていることも。

「シズちゃんってさ、刑期どのくらいだっけ」
「知ってるくせに」
「うん、知ってる。……だから、その時が来たらさ」

その時がないことも、お互いに知っている。

「今度こそ、一緒に逃げようよ」

この期に及んでまで、そう言われるとは思っていなかった。静雄は必死に泣き出さないようにしながら、臨也から目を逸らすしかない。その真っ赤な眼だけは昔から好きだった。まるでいつかに見た、不幸の訪れを知らせる赤月のようだったから。幸せになってはならない暗示だと、彼は信じていたのだ。
なのに。

「だから笑って謝って、全部なかったことになんかしないでよ」

幸せを突き付ける。どうしようもないほど溢れるまで。銃口やナイフでさえ、振り払えたというのに。
彼らは結局、共に死ぬことぐらいしか一緒に在れる術を知らない。逃げようの意味を理解していた静雄だからこそ、返答は何もしなかった。ただこの場所を出る前に、臨也が彼を忘れることを願って。ならば何の為に殺させないようにして守ったのか、自分にすら判らない。
忘れて欲しい。静雄に思いつく限りのそうさせる方法など、たった一つしか在りはしない。そんなことをしては、決して忘れられなくなることを知らないフリをして、結局最後まで矛盾を残したまま。
やがて看守から告げられる、二度目の面会だという言葉の瞬間よりもずっと前から静雄は決めていた。臨也の目の前で立ち止まってしまうことを。そして以前と全く同じように謝ったような顔のまま、彼は臨也から浴びせられる言葉へと微笑むのだ。

「シズちゃん、お誕生日おめでとう」

その言葉が最期であることを、彼はずっと前から知っている。
そして、その失うことしか生み出さない指先を、自らの首筋に這わせ――語り継げし、行く末を。


枯渇した涙と声に寄生する華の気高き末路の行方を
(110102)



あきゅろす。
無料HPエムペ!