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月の陶酔

三十路和系名家の当主静雄とお付きの臨也



静雄が風呂へと向かう途中、ふと見上げた空にある月は丸く、綺麗な赤色をしていた。赤月は不吉だと何処かで聞いたことはあるが、静雄にはそれがどうしようもなく美しく見えた。だから彼は思ったのだ。風呂から上がったらこの縁側で、月見をしようと。
風呂から上がったばかりで、少し風が冷たく感じる。軽く羽織るように着られた着物の襟を、少し正して膝をついた。帝人に持って来させた酒瓶と、徳利と猪口。酒の入った徳利から猪口に注ぎ、静雄はそれを傍らにおいたまま見つめている。水面に映った空の満月は淡く、時たま吹く穏やかな風に、酒は月ごと揺れていた。彼はそれを見ていることで、月を奪った気になっているのだ。月に届くなど到底有り得ないその短い腕で、逃げられない月の入った猪口を手にし、静雄は一気に飲み干した。
平和島静雄は、この和系良家の生まれで現当主である。三十になったばかりの頃、彼の父親が亡くなり、自然と長男であった彼が引き継いだのだ。東京のど真ん中にある大きなお屋敷はこの辺りでは有名で、それ相応に裏の面でも有名であった。何をしているのか、それは一体どういうことなのか。今は説明するほどのことでもない。それはこの先の展開で判ることだろう。いや、何故静雄の父親が亡くなったのか。それを考えてみれば、十分に説明はつく。
さて、そんな静雄には当然のことながらあまり友人はいなかったのだが、幼少からの幼なじみが一人、今でも彼の傍にいた。幼なじみだからと言っても、親友などという美しいものではなく、寧ろ腐れ縁という言葉だけではあってならないものである。

「月見酒かい」

それがこの、折原臨也であった。
臨也は静雄の露草色の着物に対し、あの月のように赤い着物を着て、静雄を見下ろしていた。その目もまた眼光鋭く、赤かった。
折原臨也の生まれである折原家は、代々平和島家のお付きとして傍にいるのが習わしだった。当然の如く、折原家の長男として生まれた臨也は、昔から守るべき主人になるであろう静雄に会わされていたのである。しかしあろうことか、その臨也を嫌ったのが静雄自身だったのだ。当時の臨也は稀な子供で、その赤目もさることながら、性格は変に曲がっている。静雄の生まれながらにして備わっていた異常な力を、周りの人間は憐れむか喜ぶかをしたものだが、彼はただ一笑、嘲るように大声を上げて笑った。それから犬猿の仲に至るまで、二人は喧嘩を続けてきたのだ。
だが、いくらお互いが拒もうとも、生まれる前から決まっていた役目には抗えず、今ではこうして落ち着いている。お互い大人になったのだろう――そう静雄は思っていたが、それもまた違う。嫌いという感情よりも更に上をいく感情が、二人に成されてしまっただけなのだ。
けれども、それもこの先で明るみにされるであろうから、今は今の彼らへと戻ろう。
臨也が酒を嗜む静雄の隣に座ると、彼は酷く怪訝そうな顔をした。だが臨也の方はと言うと、そんなことなどお構いなしの様子で、その顔に笑みを貼り付けたまま開口した。

「何のお酒飲んでるの」
「…美少年」

そう言いいながら静雄から差し出された酒瓶には、確かに達筆な字で『美少年』と記されていた。思わずウケ狙いかと思いつつ臨也が顔を引き攣らせると、静雄は眉間に皺を寄せる。どうやら胸中に留まらず、口にしてしまっていたらしい。不服そうにする彼は、その言葉に対して早々と否定してみせた。

「違ぇよ。前に新羅からもらったからよ、飲んどかねぇと勿体ないだろ」
「ああね。確かに新羅ならやりそうだ」

徳利から酒を注ぐ静雄は、また一口それを嗜む。隣でにこにことしながらその様子を伺う臨也は、そっと着物の袖をたくし上げながら手を伸ばし、静雄の前を通過して猪口を手に取った。元々、それは二つあったのだ。臨也が来ると見越しての、帝人の配慮であったのだろうが、静雄にはそれが酷く苛立ってしまう原因らしい。まるで臨也を待っていたようで、どうにもこの男にさも当然かのような顔をされるのだけは嫌なのだ。それはそう、随分と昔から。
それでも暫くの間、そうして二人で月見をする。季節外れではあるが、あの月はそうしたくなるほどに綺麗なのだから致し方ない。だが二人の間には、決して会話が紡がれることもない。口を開けば、口だけに留まらない喧嘩が引き起こることなど、この数十年で重々承知しているのだ。こんなにも穏やかに過ぎ去ろうとする時間に、わざわざそんなことで無駄にする気も毛頭にありはしない。月だけが彼らを覗く夜は、皮肉にも優しくやわらいだ風をも贈っていた。
結局、旧友よりいただいたという酒瓶は、二人の男に一晩で空にされてしまう。空瓶と化した酒瓶と徳利と二つの猪口を盆にまとめ、また後ほど帝人が片付けてくれるだろうとそのままにしておいた。時刻が現在どのくらいなのかは知れないが、もう夜も遅いだろう。静寂のみが纏わる辺りに、静雄は寝床につこうと立ち上がる。その時臨也もまた胡座していた足を立て、静雄と同じように立ち上がったのだが、彼とは違い静寂以外の纏われる空気に自然と視線が向かっていた。微かな空気の震えと止んだ風に、臨也の髪は何故か揺らいでいた。

「ああ、シズちゃん。ひとついいかな?」
「なんだ」

シズちゃんという呼称は、幼少時代に臨也がからかいの意味を込めてつけたあだ名だ。最近は場に応じてそう呼ぶことは滅多になくなったのだが、先程まで全く会話がなかっただけにその声は妙に浮き立っている。だからこそ名前の反論をする前に、ひとつと言われたそれを先に、静雄は訊ねた。一歩足を踏み出していたが為に、少し後ろにいる臨也を振り返ってみれば、彼は未だ口元に弧を描いたまま、瞳を伏せ一言。

「後ろに二歩、下がった方がいい」

刹那、ひゅんと風を切る音が耳に響く。静雄はそれを聴いていながらも、視線を向かわせる前に足を二歩後退させた。障子に突き刺さるナイフ、続いて柱にもう一本。だがあともう一本のナイフが静雄目掛けて飛んでくる。思わず足を崩したかと思えば、それは静雄を引き寄せた臨也の仕業だった。最後の一本を、彼の小刀が跳ねた。

「ほら、ね」

そう言って、先程までと打って変わらず笑みを見せる臨也。彼の腕の中に自分がいるという自体に、普段の静雄ならば苛立って殴りつけるところではあるが、今はそんなことなど気にしてはいられない。柱と、障子を突き抜け、向こうの部屋の畳に刺さるナイフを見て、静雄はその名の通り静かに声を為した。

「刺客か。またお前が雇った奴か?」
「やだなぁ。私が仕掛けた者ならば、君に知らせたりしないよ」

そうしてするりと小刀を鞘に戻し、袖に隠し入れる臨也を、彼は鼻で笑ってやる。

「はっ、なるほどな。餓鬼の頃の喧嘩はまだ終わってねぇってか」
「まあ、暫くは送るつもりはないよ。シズちゃん」

静雄が嘲るように鼻で笑うならば、対して臨也は意味ありげににやりと笑みを貼り付ける。そんな臨也の表情が、彼は心底嫌いだった。だからこそ見たくないから仕舞えと言わんばかりの当てつけとして、今まで口にしなかった事柄の指摘をしてみせるのだ。

「臨也、当主には敬語を使え」
「おや、すみません。静雄さん。…ねぇ、静雄」
「なんだ、……うわっ」

静雄が瞼を上げようとした瞬間、ぐいっと引き寄せられたような感覚に、思わず見開いた目には隣の部屋に用意されていたはずの白い布団が飛び込んでくる。それが臨也の腕で自分の着物を引っ掴まれ、部屋に投げ入れられたのだと気付いた時には、臨也が静雄の上に覆いかぶさっていた。そうして押し倒した彼の着物を早々に脱がしにかかる臨也を、静雄は物凄い圧力を秘めた表情で睨みつけるしかない。そして静雄は臨也の手を制止させようと試みるのだが、それを容易く払いのけ、さも楽しそうににやりと口角を上げる臨也には、もう手に負えないとさえ感じられてしまった。半ば諦めたように静雄がため息をつけば、再び着物を脱がしながら臨也は剥き出しの鎖骨をなまめかしく舐めあげ、有無を言わさず口調で言葉を紡いだ。

「これはきちんと御役目を果たしたご褒美ということで、いいでしょ? 旦那さん」
「ああ、もういい……。好きにしろ」
「どーも、シズちゃん」

かさかさと布が擦れ、さらけ出された白い肌に、臨也は男にしては細い指をゆっくりと焦らすように這わす。快感かも判らないぞくぞくとした感覚に、静雄はただ震え身を捩っていた。
月のみが照らしていた光は、やがて風に連れ去らわれた雲に隠される。静雄はそれを自分の愛撫に耽る臨也に抱かれながら、優しく見守っていた。一時の穏やかな時間に、また何か幸福に似たものをもらっていたように、彼は感じている。確かに、刹那それは優しかったのだと。
結局、静雄を殺すも守るのも、昔から――果ては一生、臨也だけなのだろう。
静雄は目蓋を閉じ、その身体を臨也に預けていた。弄ばれる命と身体、心までも彼に。けれど決して渡さないものが、ひとつだけある。それが折原臨也という人間。そう、彼を生かすも殺すもまた、静雄の手中に欲しいのだ。

――俺の全てを明け渡そうものなら、お前の全てを奪い取ってやるんだ。

静雄は突然眼を開き、臨也の鎖骨に齧り付く。彼はそれに一瞬片目を瞑り堪えた。残った歯型に沿い、赤く血があふれこぼれ。満足げな表情をする静雄へと、臨也は深く深く口づけた。



翌朝、目が覚めると、そこに臨也の姿はなかった。きちんと着物は着ていたし、布団も乱れた様子のない光景に、昨晩の情事は夢だったのかとさえ思えた。しかし突然襲われた少しばかりの腰の鈍痛に、それが一気に現実的なものへと変わってしまう。久しぶりに身体を重ねたからついていけなかった、と言ったら言い訳だろうか。そんなことを考えながら、静雄は自分も歳かなと自嘲していた。

「静雄さん」

その時、障子の向こうにある人影から、ふいに呼び声を投げかけられる。見慣れた姿ではあったが、一応誰かとだけ静雄は訊ねた。

「竜ヶ峰帝人です」
「ああ、入れ」

音も立てずに開け放たれた障子からは、先程まで会話していた人間が現れる。一見おとなしそうな出で立ちに、やわらかい緑色の着物を羽織った彼はその姿通りにまだ若いが、彼の身の回りの殆どを任せている使用人、竜ヶ峰帝人である。
帝人は目覚めたばかりであろう静雄に対して深々と頭を下げながら、昨晩までの臨也とは違う丁寧な敬語を使って、主人へと用件を口にした。

「おはようございます。朝食のご用意ができましたのでお呼びに参りましたが、如何なさいましょう。こちらでお召し上がりになりますか?」

何もかも知っているような口ぶりの帝人に、静雄は昨晩の出来事も知られているのだと悟った。だがこの使用人が中々侮れないことなど、もう昔から判っていることなので今更恥じなど感じはしない。立ち上がるのも億劫なほどに腰はキリキリと痛んだが、我慢できないほどの痛みでもなかった。

「いや、大丈夫だ。行く」
「では、お連れさせていただきます」

静雄の返答に対し、再び頭を下げながら帝人は障子を更に開き、部屋から出るよう促してみせる。その様子に、静雄は布団をめくり上げ、足を立てた。

「にしても、竜ヶ峰帝人なんてお前の方が名家の当主らしい名だな」
「恐れ入ります」

ほんの僅かな道のりを、帝人に連れられ歩いていく静雄。他愛のない会話をしつつ、少し老朽化していた廊下は時たまギシリという音で鳴く。そろそろ木を変える頃合いだろうかなどと胸中考えながら、ふとあることを思い出し、目の前を歩く帝人へと声をかけた。

「因みに、臨也は既に席にいるか」
「いえ、朝早くな散歩へ出たきり帰ってきていませんが…」
「ならば好都合だ。いつものを奴の膳に入れておけ」
「ええ、判りました。ではとっときの毒薬を」

けれど帝人はそう了承しておきながら、また次の言葉を続けた。

「でも、どうせまた見破られてしまいますよ?」
「いいんだよ。餓鬼の喧嘩の延長だ」

だが静雄は、そんなことなど承知の上だと言った様子で笑っている。彼には判っているのだろう。彼のそれは、臨也に対しての当てつけでしかないのだということを。そして何より、そんな薬一つで折原臨也は死なないという絶対の信頼を。昔は認めたくはなかったことであるが、こうした今なら、その信頼を穏やかに受け入れることができた。静雄は漸く大人に成り得たように思えて、今更だよなぁと苦笑する。

「けれど、どちらも殺したくはないのでしょうに」

そんな彼よりも遥かに歳下である帝人は、二人を見据えたようにそう呟く。そんな言葉は静雄に届いていないと思っていたようだが、確かにそれは彼の耳へと届いていた。
本当は殺したくないなんてこと、今更彼らは肯定などしないのだろう。そう思って、気づいて、判って、それでもだ。そこに大人の何かがあるわけではなく、ただ意地っ張りな子供心。成長しない部分もあるのだと、そう考えるだけなのである。
静雄が朝食の準備された部屋へと足を踏み入れると、そこにはあろうことか、既に臨也が席についていた。毒の盛れないことに苛立ちを見せながらも、彼もまた席に座ってみれば、臨也はそんな静雄を見て、クスリと微笑んだ。
静雄が昨晩月見をしたのは、ただ美しいと感じたから。だが、本当はまた違う理由にあるからなのだということには気付かない。あの赤く光りを放つ月が、静雄には折原臨也の持つ赤い瞳に思えて。愛おしそうに微笑む彼の赤眼を重ね、またその赤月を、静雄が愛しいと想うように。僅かな酒に、月に、甘く酔いしれるようにと。



月の陶酔
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