* * *



(一雨来るな)

 窓の向こうの空は厚い灰色の雲に覆われている。雲の動きも早い。今にも降りだしそうな空に眉をひそめてから、橋爪は止めた足を再び動かした。
(こんなもんの為に呼び出しやがって何考えてんだあのババア)
 小脇に抱えたファイルを煩わしげに持ち直しながら胸の中で悪態をつく。わざわざ理事長室まで足を運んで持っていくこれが、自分を呼び出す為だけの道具ということを理解してしまっているから尚更腹が立つ。

(おおかた、あの話の為なんだろうが)

 高い舌打ちが誰もいない廊下に響く。
 曇天のせいで薄暗い外とは違い、生徒の姿は無くとも校舎内は常に適切な明るさに保たれている。校舎の端から端まで空調設備が整っているこの場所は、夏でも冬でも気温に不快さを感じることはあまり無い。それがどこかもの悲しくもあったし、少し不気味のようでもあった。けれど幼い頃からこの環境に慣れ親しんでいた橋爪が、今さら季節ごときになぜもの悲しさなんて感じているんだろうか。いつから。

 そこまで考えて橋爪は再び舌を打つ。

 ふとした時の季節感も。校舎内の雰囲気も。目に見えるものも。肌で感じるものも。聞こえるものも。全てのものに対しての感じ方が、高等部へ上がる前の自分と変わってしまっていることを自覚している。けれどそれは今、橋爪を悩ませている原因の根底になっていることにちがいなかった。

(そのあたりも見透かされてる。もしくは見透かされたからか。狐以外の何者でもねぇなあの女)

 苦々しく顔を歪ませる。腹の探り合いをしたところで彼女相手では勝ち目が無いことはわかっているのだ。あるいは、探り合いをしたとしても彼女が提示した選択肢を選ぶのは橋爪の自由であり、結局は自分の気持ち次第であるのだから無意味にも近いのかもしれない。

 気だるそうに頭を掻いてから溜め息をひとつ吐く。気づけば理事長室は目の前だ。重厚なその扉を叩こうと腕を上げたその時、扉を挟んだ向こう側からドアノブに手をかけた気配がした。

「……ッ!」
「!」

 開かれた扉の向こう、理事長室から退室しようと出てきた人物は橋爪の顔を見た瞬間体を強張らせる。同様に橋爪も息を飲む。
 狼狽えるように慌てて振り返る動作につられて視線を向ければ、理事長である神宮寺と橋爪の視線がかち合った。赤い唇がゆっくりと弧を描く。橋爪は眉間に皴を深く刻む。隠そうともしない舌打ちの音に、目の前の人物、因幡はびくりと体を震わせた。

「橋爪。早く入りな。因幡が困っているだろ?」

 ふてぶてしさすら感じるその笑みへ睨み付けながら理事長室へと足を踏み入れる。その横を顔を伏せながら因幡が通り過ぎる。因幡は蚊の鳴くような声で「失礼、しました」と頭を下げると、丁寧に、音を立てずに扉を閉めた。
 背後で扉が閉まった気配を感じた途端、橋爪は荒々しい足取りで神宮寺が肘を付き笑みを浮かべている机の前まで行くと、手に持っていたファイルを叩きつけた。神宮寺が机に目を落とすと、強い音を立てて橋爪の手が机を叩く。

「図りやがったな」
「何の話だい」

 神宮寺は視線だけ上げて橋爪を見やると、笑んだ口元を崩さないまま目を細めた。その表情を見下ろしながら奥歯を噛み締める。

「学園内の規約の改廃、部活動と委員会と行事等の予算決議。はい確かに受け取ったよ」
「こんなもん……!」
「そうだよ、これはあくまでも口実さ」

 組まれた細い両の指先の上に顎を乗せ、神宮寺は笑みを深くする。

「以前お前に話したあの件。その答えを出す期限を教えておこうと思ってね」

(ぬけぬけとこのババア!)

 机の上に叩きつけたままの拳をきつく握りしめ、橋爪はしずかに神宮寺を睨み下ろした。薄いレンズの向こう側の瞳。口元は笑み、けれど細められた瞳はまるで笑ってはいない。何かを伝えようとする強い光も無い。口元は愉快そうに上がっているが、どこか挑戦的ですらあった。
 一度まぶたを下ろして息を吐くと、橋爪は力を抜いて拳を下ろした。

「いつまでだよ」
「そうだね。今年中にでもしておこうか」
「話はそれだけか」
「ああ。それだけ、さ」

 ならばもう用は無いとばかりに直ぐ様踵を返す。しかし直ぐに足を止め、振り向かないまま口を開いた。

「因幡はなぜここに?」
「……暇だったからね」
「暇、ね」

 呟くような返事に、神宮寺は笑いを含ませた声で「そう言えば」と言葉を続けた。

「今日、剣道部は活動しているみたいだね」
「……だから何だよ」
「いや? だから久しぶりに寮に顔を出す奴が居る、と話を聞いてね」
「俺に関係ねぇだろ」
「確かに、お前には残念なほど一切関係の無い話だったね」
(いちいちうっぜえ!!!!)

 今にも笑い出しそうな声色に、橋爪は苛立ちで歪んだ表情を隠さないまま扉へ向かう。
 そして、それ以上に苦々しいものを飲み込まされたような気分になりながら、背後でかけられた「良い返事を期待してるよ」という神宮寺の声を掻き消すように乱暴に理事長室の扉を閉めた。



 廊下には変わらず生徒の姿は無い。眼前の窓から見える景色も変わらずどんよりとした曇天だった。
 橋爪は理事長室の扉を背にしながら上げた前髪を崩すように手のひらを額に当て、誰もいない廊下で誰も聞こえないほど小さな声で「クソッ」と呟く。

(メール一本で済むものをわざわざ持ってこさせてあの話のことをちらつかせたくせに、それも口実に使いやがったな……。本当の目的は俺と因幡を鉢合わせることか)

 理事長室から出てきた因幡、と会うこと。それだけだったのだろう。それだけとは言い難いことなのだけれど。
 思えば入学式の前日も、学園に到着したばかりの因幡を理事長室まで案内したのは橋爪だった。確かに直々にその場所に呼び出される生徒なんて妙だとは思ったが、決して無いことではない。特殊な家柄の生徒であれば入学前に理事長の元へ行くこともある。しかしそれまでだ。基本的にあまり生徒の前に姿を現さない神宮寺が、生徒が問題を起こした以外で何度も特定の生徒を呼び出すことは無いはずなのに。

(なにが暇だったからだあのババア。……そこまでして)


 俺に、何を勘づかせたい。


 ぽつり。ついに泣き出した空が次第に窓を強く叩くほどの雨を降らせていく様を、橋爪はぼんやりと見つめていた。






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