GEASS
魔王たちの饗宴
下界には、もうルルーシュ・ランペルージという少年は存在しないらしい。
それはつまり人々の記憶から、そして全ての記録から抹消されたということだ。
もう彼には帰る場所もなければ、彼を待っている人もいない。
そのことを告げるべきか否か、ロロは戸惑っていた。
ルルーシュがこちらへやって来て、そろそろ1ヶ月が経つ(それは人間であるルルーシュの時間感覚であって、決して天界の時が同じように進んでいるわけではないのだけれど)
彼はもう随分前にこの状況に抗うことを止めている。
だがもし愛する妹にも、大切な友人にも忘れ去られてしまっていると知ってしまっては、彼は今度こそ本当に壊れてしまうのではないだろうか。
ロロにとってルルーシュは、もうただの人間ではなくなっていた。
しかし、時の流れは残酷なまでに進み行く。
「兄さん」
ロロは静かに声を掛けた。
それは日課になっている朝のティータイムでの出来事だった。
「何だい?ロロ」
そう問いながら、紅茶のカップを静かに置いた。
この優しく微笑む顔も、頭を柔らかく撫でてくれた手も、もう―――
「さよならなんです」
ロロは決して哀しみなど見せないように、最高の笑顔でルルーシュにそう告げた。
「そうか………」
ルルーシュはゆっくりと椅子から立ち上がり、自分よりも少し低い位置にあるロロの額に、軽く口付けた。
「ありがとう、ロロ」
引き止めたかったが、伸ばした手は何も掴めなかった。
伝えたい言葉も沢山あった。
たくさんの気持ちを共有したかった。
だがルルーシュの姿は、一瞬にしてその場から消えていたのだ。
「大好きだよ、兄さん………」
ルルーシュの飲みかけのカップからは、まだ湯気が昇っていた。
突如として訪れた浮遊感。それとともに脳内に直接流れ込んでくる断片的な映像群。
『私と共に行くつもりか?』
これは記憶。
『それは、人とは違う摂理で生きるということだ』
薄っすらと見える人影。
長い髪を揺らす女。
『お前の肩に、多くのモノを背負わされるということだ』
差し伸べられる透き通るような白い手。
その手を、取ってはいけない。ルルーシュは声にならない声で叫んだ。
―――それで救われるというのなら。
小さな手を伸ばすのは、翡翠の瞳の幼い少年。
そう、これは記憶。
戻れない。止まらない。動き始めた時計の針。
荒い息遣いで、ルルーシュは飛び起きた。
「……目ぇ覚めた?」
頭にまるで殴られた後のような、鈍い痛みが走る。
「痛っ…」
頭を手で押さえながらゆっくり辺りを見回す。
そこら中に水路を張り巡らせた広い祭殿だった。
「ここは何処だ?」
目の前にいた少年にルルーシュは尋ねた。
童顔の為本当の年齢は判別し辛いが、恐らく自分と同い年だろうと当たりをつけた。
「う〜んと何だろ?君の言葉を借りると、生贄が連れて来られる儀式場って感じかな」
人の良さそうな笑みを顔面に貼り付け、少年は答えた。
ルルーシュは紫の双眸を細め、その少年を睨み上げた。
「……お前、まさか……」
「神様」
人差し指で自身を指差しながら、彼は言った。
「スザクっていうんだ。よろしくね、ルルーシュ」
握手を求めるように差し出された右手を、ルルーシュは力を込めて叩いた。
パシンという肌と肌のぶつかり合う音が、祭殿中に響き渡った。
スザクは目を丸くして驚いた後、鋭くなった眼光をルルーシュに向けた。
「手で済んだんだ。ありがたく思え」
神を前に気丈にもルルーシュはそう言い放った。
スザクは赤くなった右手を擦りながら、ルルーシュをじっと見つめた。
「……俺は、お前を許さない」
彼の瞳に一瞬ルルーシュも怯んだが、引くわけにはいかないと虚勢を張ってみせる。
「たくさんの人を傷つけて……これが神のやることか!?」
ルルーシュの叫びにエコーがかかり、何度も繰り返される。
ルルーシュは一言も発さないスザクを不審そうに睨んだ。
そして辺りがまた静寂に包まれると、
「……君たちはさ、神様に夢を見すぎなんじゃない?」
スザクは漸く口を開き、トーンの下がった声で呟いた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だけど?」
一々面倒くさそうに口を開く姿は、ルルーシュと同じ男子高校生そのものだった。
実際スザクがどのくらい生きているのかなんて知らないが、神と言うくらいだ。恐らく自分が想像するよりも長く生きているに違いない。
「人は神に希望を抱くものだ」
「人は無力だからね」
気怠い様子で淡々とスザクは喋った。
分析し辛い。ルルーシュは小さく舌打ちした。
「神を全知全能だ、神に祈れば救われる。そう考えることの何が悪いと?」
「だから勝手なんだって。よくもまぁ、見たこともないモノにそこまで傾倒できるよね。本当は神様ほど無力な存在なんてないのにさ」
まるで神の物言いではなかった。
自分を上手く客観視していると言えばそれまでだが、あたかも神という存在を他者の目線から見ているような口振りだった。
「まさか……お前は昔、神ではなかったのか?」
一つの可能性として、ルルーシュは尋ねた。
だがスザクは満面の笑みでこう答えた。
「ご名答。さすが僕の見込んだ人間だね」
「……では、何故普通の人間だったお前が神に………」
「契約したのさ」
そう言ってまるで体重を感じさせない動きで、スザクは立ち上がった。
「契約?」
「『我と契約せよ。さらば汝に力を授けよう』」
そう言って、スザクは恭しく座り込むルルーシュに手を差し伸べた。ルルーシュはその手を一瞥しただけで、やはり手を取ることはしなかった。
「力を貰う対価としてお前は神になったと?」
「その通り」
「お前は力を使って、何がしたかったんだ?」
一瞬スザクの表情が強張ったのが分かった。
だがすぐに彼は能面のような笑みを貼り付け言った。
「死なせたくない、人がいたんだ」
自らの名を呼ぶ、桃色の髪の少女がスザクの頭を過ぎる。
可愛らしい笑みを浮かべながら、草むらを駆け回るまだ元気だった頃の可憐な彼女の姿。
「元々病気がちだった人で、その人を救うために僕は契約した。魔女……いや先代の神と」
かつて神であった人間を魔女と呼ぶ。
声音こそ穏やかだが、その矛盾が孕むものが何かは分からなかった。
「その人は病気も治って、長生きしたようだよ。もう大昔のことだけどね」
微笑みながら語る他人事。それはつまり―――
「お前は、その人の傍にいられなかったということか」
スザクは笑みを貼り付けたままだ。肯定も否定もしない。
「だって、僕神様なんだよ」
愛する人から永久に隔離され、人とは違う摂理の中で、終わることのない時を生きる。
彼は人を救ったはずなのに、これはただの罰ではないか。
「いいんだ。後悔はし尽くした」
遠くを見る翡翠の双眸は何も写さなかった。
喜びも悲しみも、怒りさえも。
「―――間違っている」
ルルーシュは静かに怒りを吐き出した。
「誰もお前を救わないというのか?」
先程のスザクの言葉が初めて分かった。
そうだ。誰も彼を見ていなかった。
それは恐らくロロの苦悩にも通じ、ジノの辛さを分かってやれなかった自分の愚かさにも通じている。
「あぁ分かっている。人の気持ちなんて理解出来ない。だが、理解できないからと言ってそのままにしておいていいはずがない」
黙るスザクにルルーシュは畳み掛けるように言葉を投げかけた。
「なんで誰も分かろうとしなかったのだろう。お前はこんなにも弱いのに」
立ち上がったルルーシュは、初めて自分から手を伸ばし、スザクの頬にそっと触れた。
『神様の幸せは誰が叶えるのですか?』
幼い妹の言葉に、今なら答えられる気がする。
「―――俺がお前の望みを叶えてやる」
憤りを感じていた。
勝手にこんな訳の分からない所に連れて来られて、しかも帰れないなんて。
だがもしかしたら、この少年を救うために自分はここに来たのかもしれない。
そういう運命なのだとしたら、喜んで受け入れよう。
「ルルーシュ……君は優しいね」
スザクは顔を綻ばせながら、同じ位置にある紫の瞳を見つめた。
「優しくなんかないさ。ただ俺が出来る範囲で、出来ることをやりたいと思っただけだ」
人は弱い生き物だ。
もしかしたらそれは、己だけだったのかもしれない。
敵わないならと諦めて、世界に絶望して、人を上から見下して。
だけど人は今、こんなにも強く在れる。
「良かったよ、君に出会えて」
頬に添えられた右手に、スザクも手を添えた。
「ありがとう。ルルーシュ。でも、やっぱり君にはお願い出来ない」
「なっ!!」
なんで、と言葉が続く前にスザクがふわりと、触れるだけのキスをした。
「お、おまっ……!!」
「君に、辛い想いなんてさせられないよ」
だって僕の初恋の人だもん。
そう言うと、ルルーシュの体がまたもやあの紫の炎に包まれた。
「君を下界に帰す」
「何っ!?」
「本当は君に次の神様になってもらおうとした。でもいいんだ。君は神には向いていない。優しすぎるよ」
泣きそうな笑顔で、スザクは言った。
ルルーシュは口を開くも、全て声にならなかった。
「下界では君がいた痕跡が全て消されている。でも安心して。ジノが最後に君に魔法をかけたんだ。君の願いが一つだけ叶う魔法をね。君は、ココから堕ちる時に願いを必死に心の中で唱えるといい。きっと世界はそうなってるから」
ルルーシュは必死に手を伸ばした。
だが、スザクはその手を取らなかった。
「好きだよ、ルルーシュ」
待て、嫌だとルルーシュは叫びたかった。
飛び散るのは大粒の涙。
足元が崩れていく感覚と共に、ルルーシュは意識を失った。
『スザク、俺も、お前のことが―――』
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