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新戦国
3
冷たい水に横たわった名無しに、起き上がる力はもう残されていませんでした。それでも彼女は彼を見上げ、にっこりと微笑みました。これで自分が与えられた役目は果たし終わったのだと、とても満たされた気持ちでした。

「名無し」

氷の中にいた人が彼女の名を呼びました。

「どうして…どうして知っているの?私の名前を」

冷たい水たまりから彼女を抱き起しながら、名無しの冷えた頬に手を当てると、反対側の頬に静かに口付けました。

「…ずっと、待っていた」

初めて耳に届いた彼の声は、夢の中で聞こえていた声と同じ、少し低くて深い声でした。その声でもう一度、名無し、と呼ばれ、彼女は彼を抱きしめたいと、心の底から思いました。ですが、もうその力は彼女には残されていません。もしこの腕に少しでも力が残っていたのなら、やっと温かさを取り戻した彼を抱きしめられたのに、そう思いました。

「名前は、なんていうの?」

「…慶次、だ」

「…慶次」

囁くように告げられた名前を名無しが呼ぶと、その刹那、彼女を抱き起した慶次の腕が、彼女の背中にきつく回されました。名無しを包む慶次の腕は、先ほどまで氷に閉じ込められていたとは思えない程、熱く、そして逞しいものでした。まるで彼女を護るかのようなその腕に、名無しは思います。この人は、きっとこうして、誰かを護ることのできる人で、そして私は、その稀有の存在をずっとこんな所に閉じ込めていたのだろう、と。だから、翼を取り戻した彼には、この先ずっと、あの光満ちたあの天上の国で、美しい世界を自由に飛び回ってほしいと思いました。慶次には、こんな暗くて縛られた世界は似合わない。何も見ず、ただ佇むだけの存在になど、してはいけない。だから。

「さぁ…そろそろ、慶次は上の世界へ戻って」

名無しは微笑みを浮かべ、慶次にそっと囁きました。

「私は、もう力も翼もなくなったから、上の世界には戻れない。でも、貴方一人なら、その翼で何処へでも行けるから」

名無しの言葉に、慶次は眉を顰めました。まるで、彼女の言葉が理解できないと言っているようです。

「早く、行って。慶次が天上の国へ飛んでいく姿、ここで見守っているから」

そう言って笑う名無しの身体を、慶次は離そうとしません。だって彼は死っていたのです。今ここで慶次が名無しを置いていけば、彼女は遠からず、死んでしまう事を。起き上がる事すら出来ない彼女が、やがて氷の湖に沈んでしまうことを。

「名無しがいない世界に、何があるって言うんだい?そんなものに興味はないんでね」

慶次は知っていました。今、この背中に生えている一対の翼は、先ほどまで名無しの背中に生えていたものだと。

慶次は名無しを抱き起し、氷の台座に横たえさせると、彼女の傍に膝魔付き、額に口付けました。そして徐に立ち上がると、片手で背中の翼を握り、躊躇うことなくその翼を背中からもぎ取ってしまいました。

「慶次…何してるのよ!」

「翼があろうがなかろうが、俺はお前さんの傍から離れる気はさらさらない」

「そんな…そんなの、だめだから…」

「ずっと抱きしめたかった名無しがいないなら、どんなに美しい場所でも…俺にとっちゃ、ただ色のないつまらない世界だ。そんな所に行く位なら、俺はここで名無しを抱いて生きていきたい」

そう言って慶次は、冷えた名無しの身体を抱きしめました。名無しは慶次に抱きしめられながら、ほんの少しだけ残っていた力を振り絞り、傍に落ちていた翼に指を伸ばします。その瞳からは、一粒、二粒と雫が零れ落ち、やがて一筋の流れとなって翼を濡らした、その瞬間。

名無しが零した水晶のような雫は、慶次が落とした翼を光へと変えました。そして彼女の胸から弾けるように飛び出すと、そのまま彼女の背に集まり、そこに新たな翼を作ったのです。その翼は、先ほどまで慶次の背中に生えていたものとそっくり同じで、真っ白な、光り輝く翼でした。慶次はその寸分狂わず、そして己の背中に生えた翼と一対となるそれをみて、とても嬉しそうにその口元を綻ばせました。その一対の翼は、慶次をこの暗く冷たい世界から解き放つ唯一のもので、それは名無しが大事に護ってくれたからこそできることなのです。

――そう、名無しは…慶次にとって、護るべき自由の証、だったのです。

「名無し…一緒に行ってくれるかい?」

慶次は名無しを抱きしめながらそう言うと、小さく笑いながら、彼女の温かな肩口に顔を埋めました。彼女の身体はどこか甘い香りがして、慶次はずっと待つだけの日々が終わったのだと、心からの喜びを感じました。自分よりも小さくて柔らかなこの存在は、自分の全てを包み、そして癒してくれるのだと、そう思いました。

「心配ない。ずっと二人でいれば、どこへだって飛べるさ」

慶次はそっと顔を上げると、大きな手で優しく彼女の頤を上げ、静かに唇を重ねました。その行為に彼女の頬は桃色に染まり、そしてその瞳からは宝石のような雫が輝いています。慶次はその姿に息を呑み、そして彼女を抱き上げました。

「少しだけ、頑張ってくれるかい?」

「…分かった、やってみる」

その言葉に満足したように目を細めると、慶次はもう一度、名無しの唇を塞ぎながら、ゆっくりと翼を動かしました。まるで自分の命を分け与えるようなその動きに、名無しの身体に力が戻ってきます。そして同じように彼女が翼を動かし始めると、やがてその動きは慶次のそれと呼応して、まるで一つの背中に生えているかのように動き出し、二人の身体を静かにゆっくりと天上の国へと導きだしました。

そして天上の国へと戻った慶次と名無しは、その後も離れることはなく、比翼の鳥としてその生を終えるまで、二人で自由に飛び続けたのでした。

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