[携帯モード] [URL送信]

CH拍手ログ
2010年6月
濡れ鼠になりながら、香はどこかでほっとしていた。

…これだけの雨なら、洗い流してくれるかな。

お気に入りの傘が台無しになってしまっただとか、せっかく安かった卵パックがみるも無残な姿になってしまったとか、そういう事にはこの際、目を瞑る事にする。

そう、血の跡が綺麗に溶けて流れてくれるなら、そんなことは小さな事だ。香はそう思いながら、傷付いた左腕を、右手でそっと触った。傷自体はそれほど大きくもなく浅いのだが、場所が悪かったのか、見掛けよりも出血していた。

ぽた、ぽた、透明の雫と共に、紅い色がアスファルトを染める。すでに逃げてしまった敵が残した血痕に、香の血が混じる。

相手にも、ちょっと深手を負わせすぎたかもしれない。香は小さく息を零し、唇を噛んだ。もう少し自分に力があれば、相手が軽傷のうちに引き下がってくれたかもしれない。だが、香も相手も必死だったのだ。相手にしてみれば香の強さは予想外だったのだろう。最初のうちは手を抜いていた。だが香のトラップを目の当たりにし、最後は全力だった。そうなれば、やはり実践経験が不足している香に、手加減などできるはずもない。ただ、生き残ることだけが、彼女が己に科した命題なのだ。

じわり、と右手に感じる血の熱さが、雨に当たって冷えていく。生きている、そう思う。足元の血は、もう随分と薄くなった。裏通りということもあり、普段から薄暗いこの場所なら、次に誰かがここを歩いても、気付かれることはないだろう。ぼぅ、と考えているうちに、腕からの出血も収まった。

「…帰らなきゃ」

この時間なら、撩は家にいないだろう。怪我をしてしまった事を隠し通すことはできないだろうが、人目につかないように帰れば、この酷く濡れた、そして血に染まったシャツを見られる事もないだろうし、そうすれば、撩は気付かなかった振りをしてくれる…そんな気がする。

香は自嘲気味に笑うと、散らばってしまった食材と、使い物にならなくなった傘の残骸を集めるため、一歩、一歩と動き出した。

「ったく…卵、台無しにしちゃったじゃないの」

呟くように拉げたパックを拾い上げる。ひき肉のトレイも潰れてしまい、香はため息を吐いた。

「今日の夕飯、どうしよう」

こんな姿になって、ついさっきまで血を流していたくせに、もう日常に戻ろうしてるなんてなぁ、と可笑しくなった、その時に。

「なーにが夕飯だ」

背後から、今は一番聞きたくなかった人の声がした。ゆっくりとトレイを片手に立ち上がり、振り返る。そこに、傘を差したパートナーの姿があった。

「…撩」

香はとっさに隠そうとしたが、自分の姿を見下ろして諦めた。この雨でシャツの染みは薄まっていたが、その分、滲んでしまって範囲が広がり、とても隠せるような状態ではない。

ポーカーフェイスの撩の視線が香を素早く見回し、そして視線がぶつかった。ゆっくりとだが大股に香に近寄り、撩が右手を上げて香の頬に親指を滑らせた。

「血が、ついてるぞ」

「ごめん、ドジった。でも、あたしは大丈夫。相手はちょっと痛かったかもしれないけど、大したことないでしょ」

濡れるから、と少し身体をずらすと、その時初めて撩の顔に表情が見えた。それは怒りか、悲しみか。

はっ、とした瞬間に、香の肩が抱き寄せられる。

「いいから。それに、その格好じゃ表通りも歩けないだろ。これ、羽織っとけ」

ジャケットを脱ぎ、撩は香の肩にそれをかける。

「あ…ごめ」

「お前が謝ることなんてないだろうが。とりあえず、とっとと帰って風呂だな」

香の口から出る言葉を遮ると、撩はそこでいつもの飄々とした顔になり、散乱している食材を見て、今日はハンバーグだったわけね、と呟いた。

「面倒だし置いてくか」

「なに言ってんのよ、ゴミになるでしょうが」

撩の言葉に香が突っ込み、一つ一つ拾い上げる。撩は、しょうがねぇなぁ、と言いながら、彼女がこれ以上雨に晒されない様に、傘を傾けた。

「…シャワー浴びて着替えたら、何かすぐに食べられる物、買ってくる」

全ての物を拾い上げ、袋に詰めると、香がそう言った。だが撩は少し思案顔になり、言葉を返す。

「んー、今日はピザでも頼もうぜ。依頼料も入ったばっかりだし、たまにはそういうのもいいんでない?」

よし、決まりだ、と言うと、撩は香の背を押し歩くのを促した。何か言いたげな雰囲気だったが、撩はそれを許さないように、取りとめのない事を話し続ける。その間振り返らず、そして、香に触れる手は、決して離されることはなかった。

血の気配を流し去った雨は、その後も二人の世界を包み込むように、降り続いていた。

[*前へ][次へ#]

あきゅろす。
無料HPエムペ!