CITY HUNTER
2
向かった先に、やはり探していた人はいた。手すりにもたれるように座り、目を閉じている。ちょうど頭上に輝く月の光を浴びた姿に、撩は思わず立ち止まった。暫く動けず見つめていると、ゆっくりと彼女の瞼が上がる。震えるように開かれたその瞳が撩を捉えるまで、それほどの時間はかからなかった。
「…びっくりした…どうしたのよ?」
驚いたように目を見開いた後、訝しむように撩を見る。その声で我に返った彼は、気まずそうに顔を逸らし、香からは少し離れた場所に立って手すりにもたれた。
「飲みに行ったにしては早かったのね」
言外に、今日は仕事だったんでしょう?、という言葉を含ませていることは分っていたが、口に出された部分にだけ、あぁ、と返事を返した。
二人が一線を越えた関係になってから、撩は闇の仕事の事を香に言うようになっていた。夜の闇に紛れて受ける仕事に、香を係わらせるつもりは端からないのだが、パートナーとして一心同体とも言える間柄になった彼女には、知っておいてほしいと思ったからだ。
「そういうお前は、暢気に月見か?」
視線だけ向けると、白い光に包まれた香が、フフン、と鼻を鳴らした。
「暢気に、じゃなくて、優雅にって言って欲しいわね」
そういって立ち上がると、光を背にして撩に近づく。
月の光の中にいればいいのに。
撩はぼんやりとそんな事を思い浮かべる。こんな闇に近づかなくても、いいのに。
「ねぇ、どうかしたの?あんた、ヘンよ」
ぼぅっとしていた撩の顔を覗き込んだ香に、彼は苦笑した。そのまま柔らかい髪をくしゃ、っと撫でると、彼女はほんの一瞬だけ動きを止めた後、何事もなかったかのようにグラスを撩の目の前に差し出した。
「どうせ帰ってこないだろうと思ってたから一人で飲んじゃうつもりだったけど、おすそ分けしたげる」
三日月のように唇をしならせた香は、撩にグラスを持たせるとワインを注いだ。赤い色が透明のグラスを満たす。
「どうしたんだよ、これ」
「美樹さんにもらったの。美味しいわよ」
「…なんだよ、独り占めする気だったのか?」
「だってあんたが家でワイン飲むなんて、滅多にないじゃない」
「うっ…、た、たまには飲むだろ」
言葉に詰まる撩を見て、香は楽しげに笑った。はいはい、と手をひらひらさせて、撩に飲むよう促す。
赤いワインを月に透かして見る。グラス越しにゆらゆらと揺れる赤い月を見ていると、むせ返るようなにおいが鼻に届く。
「…やっぱりいい。お前飲めよ」
「…どうしたのよ。ねぇ、何かあったの?」
まさか怪我でもしたのかと撩の身体に目をやる彼女を、彼は笑って否定した。
「別に、なんでもないって。気分じゃないだけだ」
そんな言葉に、それでも僅かに疑りの目を向けていたが、やがて気を取り直すと香はグラスを受け取った。
「ホント、良い香りだよね〜」
匂いを楽しむかのように瞳を閉じていたが、それも僅かな時間で、グラスの縁に唇をつけ、赤い液体を喉に流し始めた。
白い喉が、こくり、と動いたのを見て、撩がおもむろに口を開いた。
「やっぱ、やーめた」
その台詞に、香はグラスに口を付けたまま彼を見上げた。何を止めるのかといった表情の彼女の手から、撩がグラスを取り上げる。未だワインを口に含んだままでいる事を確認すると、撩は香の顎に手をかけた。先ほど髪を撫でられた時に感じた硝煙のにおいが、香の鼻腔を掠める。
「このワイン、一緒に飲もうぜ」
耳元で囁くようにそういうと、撩は香がワインを飲み込むより早く、彼女の唇に己のそれを押し当てた。
「んっ…」
香の甘い鼻にかかった声が、撩の耳を刺激する。硝煙と甘いワインの香りが混じり、どこか非現実のような気分になる。唇を抉じ開け、逃げる舌を絡め取れば、それだけで酔いそうな気分になった。
つつ、と、飲み零した赤い液体が、香の口端から顎を伝い、喉を濡らした。
「な…なにすんのよっ」
既に身体から力が抜けてしまった香は、撩の腕に支えられながらも顔を上げて彼を睨む。挑みかかるような瞳が月の光で輝いた。
「何って、こんな夜は男は化けるんだよ。カオリチャン、知らないの?」
からかいを含ませた言葉だが、撩の瞳に炎が燈る。
「しっ、知らないわよ。だいたい撩、あんたは人間でしょう?闇に紛れてたって、人間じゃない」
「…おまぁ、そりゃちょっとネタ古くない?」
「うっ、うるさいわね!」
顔を真っ赤にした香が、ぷい、っと向こうを向いてしまったのを見て、撩はクスクスと笑いながら彼女の首筋に顔を埋め、先ほど零れたワインを舐めた。
「ちょ…ひゃ…」
驚いた彼女が身を捩るが、そんなことで撩の腕から逃れられるわけもない。
「まぁ、たしかに、俺は妖怪でもなんでもない、ただの人間だ。だけど、お前限定で吸血鬼にも狼男にもなれるんだよな」
「え、ちょ」
「そんな撩ちゃんはぁ、せっかくの満月なんで、お月見しながらカオリンを美味しく頂きたいわけでぇ」
「ひっ…や…」
「却下、どうしてもっていうなら俺の部屋。あ、ブラインド越しの月光ってのもいいかも〜」
そう楽しげに言うと、撩は軽々と香を肩に担ぐ。
「ちょっと、待って、待ちなさいよぉぉぉ!!!!」
香の断末魔の叫びも綺麗に無視し、撩はこの夜も、その腕に愛しいパートナーを抱きしめて、柔らかな光を感じながら眠りについたのだった。
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