旧戦国
孫市と雪と
温暖な紀州には珍しく、今日はやけに寒い日だ。あまり寒さが得意でない孫市は、屋敷の中で移動する時も厚着でいた。今は自室に戻る途中で、彼は足早に廊下を歩いていた。
「…ん?アイツ、何やってんだ?」
ふと庭に目をやった孫市は、そこに佇んでいる人物を見つける。暫くその人を見ていたが、何かを待っているような顔が気になって、庭に出て声を掛けた。
「名無し、そんな薄着じゃ風邪引くぜ?」
いきなり背後から呼ばれ驚いた名無しはビクッ、と肩を揺らし振り向いた。
「…若!?」
「孫市、だ」
名無しは何故か『若』と呼ぶと、いつも訂正してくる孫市に苦笑する。
「孫市様、何か?」
「そりゃこっちのセリフだ。何してるんだ、名無し?」
名を呼ばれた事に満足した孫市は、先程からの疑問を口にした。
「風花って知ってますか?」
「あぁ、あの晴れた日に降る雪のことだろ?」
「えぇ、あれを…待ってるんです」
そう言って名無しは空を見た。
「待っている?どうしてだ?」
孫市は信じられない、といった顔をする。いつ降るとも分からないのに、待つだけなら温かい部屋で待ってもよいのではないのか、と言った。すると名無しは首を降り、子供騙しのおまじないですけどね、と前置きしてこう答えた。
「風花の…最初にやってきた一片に願掛けするとね、願いが天まで届くって昔話があるんです」
毎年やってるんですよ、と名無しは少し照れたように笑った。彼女のそんな笑顔に、孫市も知らず微笑む。
「へぇ、そいつは初耳だな。で、名無しの願いってなんなんだ?」
彼女の指先の色を見ればどれほどの時間そこに立っているか想像がつく。名無しにそこまでさせる願いとは何か、孫市は無性に聞きたくなった。
「それは…大切な…大切な人が、戦に行っても必ず無事に帰ってくるように…本当は自分が戦に行ってその人の楯になりたいけれど、私にはその力がないでしょう?だからせめて…せめて祈りを捧げることぐらいはしたいんです」
そう言うと、彼女は静かに空を仰いだ。その横顔は孫市が初めて見るもので、優しく、それでいて強く…美しいと素直に感じる顔だった。
「その大切なヤツ、って?」
孫市は庭木にもたれ、名無しに聞いた。
「えっ?…さぁ、誰でしょう?」
名無しは彼を見つめて悪戯っぽくそう答えると、クスクス笑って再び空を見た。太陽の光が眩しい。手を翳して光を遮ろうとした時、背後から温かい空気に包まれた。
「っ!…ま、孫市様!?」
温かさの正体は、孫市の仕業だった。彼は自分の上着の前を開け、名無しをその中に包み込んだのだ。さらに腕でしっかり抱きしめ、彼女が逃れられないようにする。
「あ、あのっ!」
「なんだ?」
「あの、は、離して下さい!!」
「ダメだ。相手の名前を素直に言えたら考えてやるさ」
孫市は彼女の耳元で囁くようにそう言うと、さらに腕に力を込める。それは、言わなければ離さないという、彼らしい警告でもあった。
「〜〜〜っっ!!……まっ、孫市様…です…」
暫くの沈黙の後、名無しは耳まで赤くなりながら小声でそう言った。
「はい、よくできました」
孫市は愉しげにそう言うと、名無しの頬に軽く口付ける。
「っっ!!やっ、約束です、離して下さいっ!」
「約束?そんな約束はしてないぜ?」
「だってさっき、ちゃんと言ったら離してくれるって」
「考える、と言っただけだ、離すとは一言も言ってない」
しれっ、とした顔でそう答えると、再び名無しの耳元で彼は囁いた。
「…名無しは俺の…俺だけの勝利の女神だ。祈り続けてくれる限り、俺は必ず名無しの元に帰ってくる。だから…これからも、祈りを届けてくれないか?」
「…はい!」
溶けるような甘い囁きに、名無しはいつしか彼に体を預けていた。そんな彼女を愛しそうにもう一度抱きしめ、孫市は空を見る。
「…名無し、きたぞ!」
「あっ!」
ひらひら、ひらひらと、白い花が舞い落ちる。名無しが願いを呟くと、花はその言葉を天に運ぶかのように、風に乗って飛んでいってしまった。
「…行っちゃいましたね」
「そうだな」
「孫市様は、何か願い事、されました?」
「俺はもう叶ったからな」
「そうなんですか?いいなぁ」
羨ましそうにそう言うと、名無しは再び空を見る。優しい眼差しで彼女を見つめた後、孫市も空を仰いだ。
―─もしも今一つ願いが叶うのであれば…願わくば、彼女と共に時を重ねられることを―─
風に乗ってやってきた天からの白い使者は、二人の想いを抱きながら、再び風に乗って去っていった。
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