旧戦国
届かぬ心
もう、貴方はいない。
もう、私の名を呼んではくれない。
それでも。
私は彼に呼んで欲しかった。
「名無し…」
と。
名無しはもう随分前から気付いていた。いつの頃からか光秀の心に巣食っていた闇を、いつも彼を見ていた彼女は知っていた。だから。
「光秀様…」
その闇で優しかった顔が歪んでしまった時、名無しはいつも彼の名を呼んでいた。そうすれば、いつかまた元の彼に戻ってくれるかもしれないとの淡い期待を込めて。名を呼ぶことで、光秀の心が闇から抜け出してくれるかもしれないと、そう願っていた。
だから名無しは必死で彼の名を呼んでいた。彼女の声が聞こえると、光秀は必ず振り返ってくれる。そしてこういうのだ。
「そのような悲しい顔をして…どうしたのです、名無し?」
私はそんな顔はしてないわ、だって貴方がこちらを向いてくれたのですから…。
「嬉し涙なら、もっと笑って嬉しそうにして下さい、名無し」
そういって優しく抱き締めてくれる光秀の腕は、今も昔も同じ温もりだった。でも、名無しは寂しかった。もうどんなに名を呼んでも、彼の心の闇は消えないのだということを思い知らされるから。
どんなに同じ腕に抱かれても、同じ温もりを感じても、ひたひたと隙間を埋める闇を、名無しは拭い去る事ができなかったのだ。
…昔の彼なら、嬉しい時も辛い時も、いつも自分に話してくれていたのに。どうして何も言ってはくれないのか。
光秀が名無しに何も言わないということは、言えば名無しに危害が及ぶからなのだろう。だが、今までだってそんな事はたくさんあった。それでも二人で色んな物を分かち合ってきたのだ。
それなのに。
光秀が取り込んだ闇は、もう名無しが入り込む余地のないぐらいに彼を独占していた。
もう止められないのだろう。二人の歯車が噛み合うことは、もうないのだろう。
それでも。
昔のように呼んで欲しかったのだ。優しく、穏やかな声で。そして見つめて欲しかったのだ。
暗闇ではなく、一人の女として、その真摯な瞳で。
「名無し」
そう囁いて。そして抱き締めて。貴方から溢れ出す暖かな光で、私を包んで。
――明智光秀、天正十年六月二日払暁、本能寺を急襲。同十三日、京・小栗栖にて落命。
もう叶わない。ささやかな想いが届く事は、今も、これからも、もうない。光秀は逝ってしまったのだ、心に闇を抱いたまま。この世に名無し一人を残して。
せめて願うのは、彼が最後に思い浮かべたのが、自分であって欲しいということ。
ほんの一瞬でもいい、名無しという存在を思い出してくれていたらいいと。
私はこれからも心に刻んでいく。貴方という存在を。光秀という、その名前を。
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