旧戦国
幸村と雨空と
「幸村様、少し休憩なさいませんか?」
名無しは盆に乗った湯飲みと菓子を見せ、ニッコリ笑った。
「あぁ、そうしよう」
部屋で書物を読んでいた幸村も微笑を浮かべる。二人は読みかけの書物を片付けた後、部屋で他愛もない話をしながらのんびりと時を楽しんでいた。
ふと会話が途切れる。外の雨音が二人を包む。名無しはそっと窓を開け、空を眺めた。
「雨、止みそうにないですね」
「この分では夜まで止まないだろうな」
「そうですよね…」
幸村の言葉に名無しは少し表情を曇らせた。
「どうした、名無し?」
そんな名無しの様子が気になり、幸村は彼女に尋ねる。
「今日は七夕ですよ?幸村様」
そう言うと、名無しは苦笑しつつ言葉を続けた。
「昔話だってことはよく解っているんですけど…今日は彦星と織姫とが、一年にたった一度だけ逢瀬を許された日でしょう?それなのにこんなに降ってしまっては、せっかくの日が台無しなんですもの。そんなの可哀想で…とても切ないんです」
本当に、子供みたいですけどね、と笑った名無しは再び雨空を見上げた。
そういえばそんな日だったか、と幸村は思い出す。たしかに自分も子供の頃は短冊を書いたりしたし、そんな話を聞いて七夕は晴れるように祈ったりもしていたが…いつの頃からかそんなこともなくなり、ただ日々が忙しく過ぎていただけだった。名無しがいなければそんな日が在ったことすら思い出さずに過ごしていただろうが…。
幸村はそっと名無しの横顔を見る。憂い顔で空を祈るようにじっと見つめるその姿は、女性らしい、そしてはっとさせられる美しさを備えていた。
「…その話には、続きがあるのを知っているか、名無し?」
ふと思い出したように幸村が声を上げる。
「続き…?」
「そうだ。天の川が渡れずに、嘆き悲しんでいた二人の話だ」
「いえ、知りません。先があるんですか?」
「あぁ。嘆く二人を見ていた者がいてな。それは鵲(かささぎ)という鳥なんだが、二人を可哀想に思った彼らが、川の上空にその翼を並べて橋にしたんだ。だから彦星と織姫は七夕の夜に雨が降っても、一年にたった一度の日を悲しみで過ごすことはなくなったそうだ」
「そうなんですか!…よかったぁ…」
幸村の話を聞いた名無しは、とたんに笑顔になった。たとえ伝説の中の事でも、恋人達の幸せを喜ぶその笑顔はとても眩しく感じられた。
「…私だったら」
「えっ?」
呟くような幸村の声に、名無しは再び幸村を見る。
「私だったら…一年にたった一度きりの名無しとの逢瀬の日ならば、たとえ困難でも、どんな事をしてでも必ず逢いに行くぞ」
驚いて眼を丸くする名無しを、幸村は柔らかな笑みで見ていた。徐々に名無しの顔が赤くなる。
「あの…そんな、危ないです。無理したら死んじゃいます」
なんと答えてよいのか困った名無しは、赤い顔のまま下を向いてしまった。幸村は苦笑を漏らしてこう言う。
「ふぅ…せっかく思い切って告白してみたが、これは名無しに振られてしまったか」
「っ!ち、違いますっ!!」
彼の言葉を聞いて、名無しは慌てて顔を上げた。その刹那、彼女の周りを暖かい空気が包む。
「たとえ無理をしてでも、必ず逢いに行く。名無しが悲しむ顔を対岸で見ていられる程、私は強い人間ではないのでな」
幸村の腕に抱かれたのだと気付いた名無しの耳に、彼の暖かな振動が響いてくる。見上げるとそこには、名無しだけが見ることのできる、彼の優しげな笑顔があった。
「…必ず、来て下さいね?」
「あぁ、約束だ」
名無しは微笑を浮かべると、ゆっくりと幸村の胸に顔を埋めた。幸村は壊さないように、そして離れないように名無しを抱き締める。
雨音は、やがて二人を穏やかな時間で包み込んでいた。
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