旧戦国
1
月が皓々と闇夜を照らしていたある夜。名無しは一人屋敷を抜け出していた。
「…ふふふっ、美味しいお酒に綺麗な花を独り占め!幸せ〜」
そう言うと杯を煽り、名無しは頭上を見上げる。そこには見事に咲き誇った桜が夜風に枝を遊ばせていた。背にした幹に持たれかかり、彼女は再び杯に酒を注ぐ。その時。
「そんな所で一人酒とはつれないな、名無し」
突然背後から声を掛けられ、名無しは思わず杯を落としそうになった。
「ま、孫市!」
がばっと振り向いた先には、戦国最強と謳われる雑賀衆の頭領であり、そして名無しの想い人でもある男、雑賀孫市の姿があった。
「な、なんで此処に孫市がいるのよ!」
たしかにこの桜は辺りでも有名な古樹ではあるが、夜更けにこんな人里離れた場所、偶然出会うにしてはちょっと不自然だ。名無しの驚きも無理はなかった。そんな彼女の驚きを見て、孫市は苦笑気味に答えた。
「そりゃ、名無しが怪しい動きをしていた事に気付いたからさ」
「えぇっ?」
「夕方お前の兄さん誘いに行った時会っただろ?妙にそわそわ楽しそうだったぜ。それに飲みに行った帰りに名無しの屋敷裏を通り掛かったら、こっそり出て行く姿を見かけたんでね。こんな時間に女性一人歩きは物騒だからな、ついてきたってわけだ」
そういうと、孫市はふらりと名無しの傍までやって来て、隣に腰掛けた。たしかに、その言葉通り飲んでいたようだ。微かに酒の香りがする。そして…それに混じる女の匂い。名無しは小さくため息を吐くと、殊更不機嫌そうに孫市を睨んだ。
「それはわざわざすいませんね!でもご心配なく。こんな所に人なんてこないし、大丈夫よ。だから孫市はお姉さん方の所に戻ったら?」
名無しはそう言って孫市に背を向けると、再び杯を口に付けた。
「へぇ、焼き餅か、名無し?」
孫市はそんな名無しを見てクッ、と笑う。
「誰がよっ!!」
名無しは怒ったように言うと、幹の反対側にくるりと回りこんでしまった。
――結局、彼とはいつまでもこうなのだろう…。
名無しは桜を見上げ、一つ息を吐いた。いつからか自分の孫市に対する気持ちは、兄の友人という枠を超えてしまっていた。それでも、今までの――友達の妹として得られる温かさを失うことも怖かった。なら、私にできることは一つ。この想いに蓋をして、しっかり鍵を掛けて誰にもわからない様にしてしまえばいい。そのまま心の最奥に沈めておけば、いつか自分自身でも忘れてしまえるかもしれない。
…なのに。
孫市はいつもこうやって私の前に現れる。楽しい友人の顔で、優しい兄の顔で。そして最奥の扉を叩く、愛しい人の顔で。
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