旧戦国
桜夢
…ま…む…さま…
…誰だ…名無し…か…?
…政宗様…
何処かで己の名を呼ぶ声に、閉じていた瞼を上げる。
まだ鈍い思考を叱咤しながら、その聞き慣れた耳障りの良い声の持ち主の方に顔を向けた。
その刹那。
気まぐれな風が彼女の周りを取り囲み、はらはらと、はらはらと、散っている桜の花弁を舞い上げた。
薄く色づいた柔らかな花弁は、流れるように彼女の髪を撫で、そし何処かへ去っていく。掌を見つめた少し伏せ気味の顔は、きっと微笑んでいるのだろう。
もっとこっちへ来い。
そんな所では良く見えぬわ。
桜はまるで彼女を放さぬかのように、ゆるゆると、ゆるゆると、花弁を降らせていた。
それはしんしんと降り積もる雪のように。
ふと、政宗は不安になる。
儚い雪のように、このまま彼女が消えてしまうのではないかと。
桜に魅せられた彼女が、そのまま桜の精になってしまうのではないかと。
だから彼は呼んだのだ。
「…名無し!」
と。
そこで政宗は覚醒した。目の前に広がるのは、抜けるように青い空と、満開の桜。一人城を抜け出して花見と決め込んでいたのだが、いつしか眠っていたようだ。
「夢…か…」
思わず呟いた彼は、自分の唇に違和感を覚えて指を当てた。その指先に触れるものをそっと摘まんで視界に入れる。それは頭上の桜が降らせた、一枚の花弁だった。
「桜め…貴様、儂に懸想しておるのか?」
歳若き奥州の覇者は、不敵な笑みを浮かべて頭上を見やる。桜はただ何も言わずに、一枚、また一枚と、花弁を風に戯れさせていた。
「お前が儂をどう思おうが勝手だが、生憎だな。儂はお前の物にはならんぞ。それに…」
そして彼は先程の夢を思い出す。
「それに…名無しも、お前には渡さん」
すっと細められた隻眼のその顔は、幼さの中に大人びた覚悟を窺わせた。桜は笑っているかのように、さわさわと花を揺らす。
「ふん、解っているならそれでよい」
政宗は近づいてくる気配に気付き、また瞳を閉じた。彼女が…名無しが此処にくることはもう解っていた。いつも自分を見つけてくれる名無しが、今日もまたいつものように名を呼んでくれることも。
――それまでは。その瞬間までの一時は、桜の夢に酔うのもまた一興か。
政宗は軽やかな足音を耳にしながら、奥州の遅い春に抱かれていた。
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