旧戦国
4
孫市は慣れているかもしれないが、自分はこんな色めいた場面に出くわしたことはないのだ。しかも自分にとっては想い人であり主でもある。いつ危険がくるとも知れない状況である。名無しは混乱した。その間にも孫市は名無しの耳に頬に唇を落としていた。そして彼の唇が名無しのそれと重なろうとした瞬間…彼女の中で何かが切れた。直後、鈍い音が辺りに響く。
「…ってぇ〜っ!!!」
「…痛いのはこっちもだ、この色ボケ頭領が!!さっさと縄解けっ、バカ孫市っ!!」
…そこには額を押さえて呻く孫市と、痛みに眉を顰めながら、主に悪態を吐く名無しがいた。そう、孫市が名無しに口付けようとした瞬間、彼女が彼に頭突きを食らわせたのだ。
「…雑賀の長に頭突き食らわせた女は名無しぐらいだぜ。お前、頭の硬さは子供の時と一緒だな。それにその言葉遣いも」
額を押さえながらも孫市は楽しそうに笑った。名無しはバツが悪そうな顔をしたが、ため息を吐くと苦笑する。彼がそんな顔で笑うのを久しぶりに見たな、と名無しは思いながらこう言った。
「悪かったわね、これでお互い目が覚めたでしょ?」
「…あぁ、そうだな」
孫市はそう言いながら手早く名無しを縛っている縄を解く。後ろに回ったために、幸か不幸か、孫市の少し残念そうな顔は名無しからは見えなかった。
「さて、名無しの言う通り長居は無用だな。立てるか?」
「はい!」
「よし、じゃあこれ持ってろ」
ひょい、と渡されたそれを見て、名無しは驚いた。それは、最近まで孫市が愛用していた銃だった。数々の戦場で彼を助けてきたそれを、孫市は引退させた後も手入れをして大事にしていたのだ。そんな大事な銃を自分が使う訳にはいかない。
「こんな大事な銃、使えません!」
「じゃあ名無しは丸腰でどうやって俺を護るんだ?」
孫市にそう言われ、名無しはぐっ、と返答に窮した。
「…じゃあ、今だけ、お借りしますね」
渋々、というように名無しはその銃を手にする。
「いや、それはもう俺には必要ないからな。名無しが使ってくれ。今まで俺を護ってくれたヤツだ。絶対お前も護ってくれる」
「えっ、そんな!ダメですよっ!」
名無しはさらに目を丸くして驚いた。今までは誰にも触らせなかったのに。
「いいんだ、俺が持っててほしいんだよ。それに、こんな思いをするのはもうゴメンだからな。それは俺の分身みたいなもんだからな、大事にしてくれよ?」
悪戯っ子のように笑うと、孫市はさっさとその場を後にした。
「え、ちょ、待ってよ!」
名無しも慌てて孫市を追いかける。
――ねぇ、それってちょっと自惚れちゃうよ?――
「おい、名無し!これから二人の時は敬語はナシだ!それと若って呼ぶのもナシ。お前にそんな言葉遣いされるのは落ち着かないからな!」
「そんなことできません!」
「さっきしてたじゃないか」
「それは若がヘンなコトしようとするからです!!」
「ふぅん。じゃあその『ヘンなコト』、またするしかないか…」
「ちょっ、何考えてるんですか!」
「俺ってバカらしいしなぁ」
「…解ったわよ、孫市!」
「そうそう、素直が一番だぜ、名無し!素直ついでに俺への愛でも告白してみたらどうだ?」
「…アンタ、昔みたいにやられたいの?」
二人は幼かった頃に戻ったかのように駆けてゆく。あの頃と変わらない、そしてあの頃と比べてもっと強い絆を心に秘めて。その後ろ姿を月だけが静かに見送っていた。
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