旧戦国
3
「たかが、一兵卒、だと?」
その時、孫市の低い声が名無しの耳に届いた。怒気を含んだその声色に、名無しは顔を上げた。
「若…太夫…?」
そこには、幼馴染みの自分でさえほとんど見たことのない、彼の顔。静かだが、明らかに怒りを湛えた表情の孫市がいた。
「雑賀の人間は、たとえ誰であろうと俺にとって『たかが』一兵卒じゃない。ずっと俺を見ていた名無しなら、そんなことぐらい解ってくれていると思ったがな?」
怒りに細められた彼の眼に、名無しは背筋に冷たいものを感じた。
「そ、そうでしたね、言葉を間違えました。すいません」
名無しは素直に謝った。そうだ、自分はずっと孫市を見ていたはずなのに、なんて失言をしたのだろう。たとえこれが私でなくとも、彼なら助けにきているだろう。
そこで、名無しはふと、あることに気付いた。だがそれに思考を巡らせる前に、孫市の不穏な発言が名無しに向けられた。
「…そういやこれは夢だったよなぁ」
「…は?」
意味が解らず彼を見ると、何やら悪戯を思いついたような顔でニヤニヤ笑う孫市がいる。名無しは遠い記憶を呼び起こした。これは、彼がろくでもない、そして名無しに確実に何かをしようとしている時の、子供の頃の顔と同じだ。彼女は未だに不自由な身体を捻り、孫市から離れようとした。だが、彼は名無しの顔の左右に手をつき彼女が身動き出来ないようにする。
「あ、あの、早く逃げないと敵がきます…よ?」
「大丈夫だ、ここの敵は粗方片付いてる。それにもうそろそろ下針達がくる頃だろう」
そう言うと孫市は名無しににっこり微笑んでみせた。
――絶対なんか企んでる――
名無しは警戒心も露に、主である孫市を睨み付ける。
「…そんな姿で睨まれても、相手を煽るだけだぜ、名無し?」
片眉を上げニヤリ、と孫市は名無しを見て笑った。
その姿――後ろ手に縛られ、暴れたために乱れた着物から覗く素肌と、こらえた涙で潤んだ瞳。幾分上気した顔で睨んでくる相手は、彼のよく知っている彼女の、初めて見る姿だった。
「…なっ!ふっ、ふざけてないで、さっさと逃げましょうよ!いくら雑賀衆がきているからって、まだ敵が残っているなら危ないですよ!」
名無しは自分の着乱れた姿に赤面しつつ、孫市にそう進言した。だが彼は一向に逃げる気配を示さない。それどころか、名無しに顔を近づけ、耳元でこう囁いたのだ。
「…夢ならそんな野暮な奴等もこないさ。それに…夢は願望を叶えてくれるんだ。そんないい機会を逃す手はないだろ?」
名無しは耳に掛かる孫市の息に小さく身震いした。
――こんなの、反則すぎる!――
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