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九死万塁、ランナーズハイ(勇人とリュータ)




「・・・・・・ごめん」
所在なげに自分の制服のリボンを弄っていた目の前の女子は、俺の口から発された言葉に暫し呆けているようだった。しかし気まずそうに視線を逸らすと、そうですか、そうですよね、ごめんなさいとモゴモゴ口を動かした。やがて顔を上げ、受験頑張って下さいね!と今にも泣きそうな目をし、ただ何かを振り切ったように爽やかな笑顔で駆けて行った。そのひどくぐちゃぐちゃな様に、俺は先程の自分の返事を少しだけ後悔した。

「何やってんだ・・・。」
苛立たしいくらいの快晴だった。このまま重い鞄を放り出して自転車を駆り、海まで走って思い切り遊びたかった。だが花も恥じらう学生の夏といえど、俺の場合は高三の夏だ。当然遊んでいる場合ではない。今日も早めに終わった授業の後に向かうのは海ではなく予備校だし明日も明後日は飛ばして明々後日も。予備校の授業がない日はバイトだ。それも最近は早めに上がらせてもらい、家に帰っていそいそと受験勉強。本当、何やってんだ。である。
大学で特別勉強したい訳でもない。ただ、中学から始めて高校でも三年間やった吹奏楽を今更やめる気にもならずどうせ行くなら、と自分の偏差値より高い大学を目指してしまったのが誤算だった。行けたらいいかな、くらいの気で受験に臨むことを許してくれる奴なんて親や教師はおろかクラスメートにもいなかった。お前そこを目指すなら本気でやんなきゃまずいぞ、やるからには本気でやれ、お母さんあんたが本気でやりたいならお金くらい惜しまないわ。いやそれまずいだろ。うちそんな金ないだろって。だいたい楽器だって金がかかるのだ、そりゃもう。しかしそこまで言われて引き下がる訳にもいかず、溜息吐きつつとぼとぼと予備校へ向かう。何やってんだ、じゃないのだ。やんなきゃいけないんだ。

「分かっちゃいるんだけどなあ・・・」
「何が?」
「どわっ!?」
想定していなかった後方からの相槌に思わず跳び上がる。見れば赤いヘルメットに学ランを着くずした、中学時代の後輩が派手に反応を見せた俺に怪訝そうな視線を送っていた。何化け物でも見たような反応してんすか、と先輩への敬意が微塵も感じられない態度で言う。
「びっくりした・・・なんだ勇人久しぶりだな。こんな時間に何してんだよ」
焦りを誤魔化すように俺は鞄を持ち直す。全く格好悪い。ただでさえ馬鹿みたいに暑いのに、変な汗をかいてしまった。
「こんな時間はそっちもでしょう。ってか家、こっちじゃないっしょ先輩」
俺は文化祭の買い出しです、とここでようやくスケボーから降りて暑そうに開けたYシャツを扇ぐ。仮にも優等生がそんな格好でいいのか、と軽口を叩けばそれはもうやめたんで、と飄々と返す。俺はそれに少なからず驚く。中学の頃は俺や一部の友達にこそ憎まれ口を叩いていたものの、教師受けもよく高校でも上位のクラスに進んだと聞いていた。何より要領よくそつなく何でもこなす勇人が、と意外だった。
「何かあったのか?」
「んー、いやべつに。ってか先輩何かありました?何もないでしょ」
断定されてしまった。相変わらずというか、まあ確かに何もないのだ。勉強はきついしバイトはそれなりに充実してるし今日も高校の女子に告白されたり断ったりしたが、それも、何も、だった。何も。
「お前は相変わらずだな」
感じたまま出た言葉に何故か勇人は数瞬黙った後、それには答えず交差点の道の先を指差した。その方向にはこの距離からでも大きくみえる、立派な門構えの家がある。あれがどうしたというのか。
「蒼井硝子、って知ってますか」
「ん?ああ、中学の時に聞いたことあるような・・・ってか、後輩だろ。俺が知るか」
「後輩だってことは知ってるじゃないすか」
まあ、そうだけど。唐突な話題の転換に戸惑う俺を気にせず、そいつと空、付き合ってんですよ、と続ける。空というのは確か勇人の親友だったか。俺も二、三度会ったことはあるが、優等生の勇人に似つかわしく大人しそうな文化系男子という感じだった。へえ、と相槌を打つ。まあ親友の彼女というのは気になるものだろう。俺にはよく分からないが。
それきり沈黙したまま歩を進めていると、差し掛かった横断歩道の信号が点滅を始める。勇人がスケボーも下ろさずに走り出すので俺も慌てて渡り切る。
「っておい、勇人?」
どうにか赤になる前に渡り切ったが、勇人は走る脚を止めない。というか意外と速い。体育も優等生だったかこいつ、と思いながら叫ぶ。「おい勇人どこ行くんだよコンビニ過ぎてんぞ!」更に五メートル程行った所でやっと振り返り、競走です、と一言発したきりまた走り出す。競走も何もずっと吹奏楽をやっていて基礎体力作りはやらされていたが走り込みなどろくにしていないし、受験にかまけて鈍りきった俺の身体で未だ全盛期の勇人に追い付ける訳もない。スケボーを抱えたまま後輩の背中はどんどん離れて行く。情けない。時計を見るともう予備校の授業まで時間がなかった。畜生、と全力を振り絞るつもりでアスファルトを蹴った。これでも昔はバスケやってたんだぞ、すぐやめたけど。やっとの思いで勇人の脇に着くと奴は少し意外そうな顔をした。こちとら今日会ってからずっと驚かされ通しなのだ、あと少しリードしようと更に脚に力を込める。このまま予備校に駆け込めば間に合う。だが後方に振った右腕を、不意に掴まれた。
「リュータ危ないっ!!」
バランスをもっていかれ、そのまま俺は勇人に抱えられる形になる。ボードを持っている方の手だったので背中に固い感触が痛い。何だよ、と文句を言おうとして目の前を横切る黒い鉄の塊に唖然とした。自動車がスピードを出して道を横切ったのだ。エンジン音が全く耳に入っていなかった。俺はどうしたというのだろう。
「・・・・・・悪い」
何故俺が謝っているのか、というかお前さっきどさくさに紛れて呼び捨てにしただろ、とか言いたいことはあったが勇人があまりにも真剣な様子で去って行った車を見詰めているのでそれ以外何も言えなかった。どれくらい立ち尽くしていただろうか、いい加減耐え切れなくなって俺は意味もなく靴紐を結び直すと大きく息を吸い込み、また前に向かって走り出した。

「来いよ勇人、競走だ!」

勇人はしばらく呆けている様子だったが、やがて後方から足音が聞こえてきた。負けてたまるか。俺もスピードを上げる。前を走っていると色々なものが見える。さっきは勇人を追いかけていてそれどころではなかった。勇人はしかし、俺の後ろにいても色々なものが見えているのではないだろうか。見えてしまうのではないか。何でも優秀と言われる彼だから。
「先輩!」
「おう!」
「俺、相変わらずですかね!」
一瞬、答えに迷った。久しぶりに会って、どこか以前と違うものを感じたのは確かだ。俺が知ってる優等生の勇人はもういないのかもしれない。だが俺はなるべくいつも通りの調子で言った。
「変わんねえよ!お前はお前のままだ勇人、俺はそう思う!」
勇人は勇人だ。昔から鋭くて、少し鋭すぎるところがあるがそれでも、それが勇人という後輩だった。先輩は変わりましたね!と続ける彼はやはり鋭すぎる。だから俺は時計を見るのを諦めて代わりに脚を動かすことに集中する。家に帰ったら親父に怒られるだろうが、これは俺が真に変われるかどうかの大事な問題なのだ。
「バーカ、変わってねえよ俺もお前も!恐ろしいのはこれからだ!!」
何を思って恐ろしいと言ったのか俺にも分からなかった。それは単に受験の過酷さや目の前の壁といった直接的な対象でないことは確かだった。だから俺たちは走っていた。逃れるために、振り切るために必死で走っていた。追い付かれてたまるか。この街には美しい星の見える丘があるのだ。










九死万塁、ランナーズハイ
(信じることの重さなんて知らなかった)

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