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「……あ……これ…」
「分かったようですね」
それは単なる蝶々などではなかった。その蝶は 小さな幾何学模様の集合体だったのだ。彼女は大きな瞳を見開き 集合体に釘付けになる。更によく観察すると 何処を見ても同じ幾何学模様になっていた。サイズは様々だが 全く同じ図形である。にもかかわらず、その模様は蝶の形を作り出しているのだ。骸はクロームの反応に満足し 絵の解説を始めた。
「それはフラクタルと呼ばれている模様の集合体です。何処を見ても同じ模様が出来上がる不思議なもの…と言っても、その形式をとるものは世の中にごまんとありますが」
フラクタルとはごく最近見つけられたもの。分かりやすく身近なものに置き換えてみよう。例えば貴方は海や森の写真を見ている。そしてその一部を切り取り、写真の別部分へ貼り付けてみたとする。するとその部分は違和感なく元々の写真に溶け込むのだ。それは海や森各々が、ある一定の法則を持って姿を形作っていることに由来している。
また、他にもこんな例がある。巻き貝だ。これまた巻き貝の模様一部を切り取って繋げていく。すると、いつの間にか元々の巻き貝が持っている模様に戻るのだ。
我々は『絵の一部を切り取って繋げる』と言う作業を行なったに過ぎない。つまり、この巻き貝もある一定の法則――全体の極小単位を重ねると複雑な模様になり、その上へ更に重ねていくといつの間にか全体へ戻っているという――で模様が出来ているのだ。この一定の法則をもつ図形や絵を『フラクタル形式』または『フラクタル』と呼ぶことがある。
彼のご機嫌な語り口に、クロームは首を傾げた。なんだか凄い図だとは分かったが 匣作製に関係ないように思えたのだ。しかし骸は紙を丁重に折り畳み 汚さぬよう内ポケットへしまった。その際、端っこに『ロレンツィニ』のサインが見えたような気がした。ロレンツィニは、ボールペンの中にあの紙を潜ませる程フラクタルが好きだったのだろうか。
「さて収穫もあったことですし、帰りましょうか」
「…はい…」
ここは用済みだと身を翻した恩人の髪が綺麗な弧を描いた。どうやら今回訪れたこの場所にケーニッヒが居たことには変わりないが それは随分昔のことだったようだ。沢山のマフィアに追われているのにも関わらず 長い間逃げおおせている研究者。何者かが裏で手引きをしているのだろうか。でなければ 骸の目から何年間も隠れ続けるのは不可能に思えた。
シートベルトを装着するクローム。相変わらず天頂には果物の房が居座っていたが 随分髪が伸びて女らしさが増した。運転席には 人生を捧げた恩人、骸。こうして隣りに並ぶ度毎に 共に任務についている感慨に耽っていた。青々とした流れゆく景色もろくに目に入らない。カフェ近くで車から降りれば 二人で早めの朝食を取ることにした。その間も骸はご機嫌でむくむくと疑問が起こる。そうして好奇心に負けたクロームはカップから口を離し 怖々と口を開いたのだった。
「骸様…さっきの図形を見つけたのが、そんなに嬉しいんですか…?」
「クフフ…見つけたのがこれだけだったなら、僕はそこまで嬉しくはなりませんね」
「じゃあ…他にも何か見つけたんですか…?」
「ええ、これです」
ボールペンと一緒に落ちていましてね。骸は意味深に微笑を零し懐をまさぐった。綺麗に折り畳まれた蝶の絵と虫喰いの羊皮紙が姿を現す。確かに先程落ちていたものだった。薄汚れて何も書かれていない羊皮紙。だがその汚れは不自然な程に均等であった。
「(もしかして汚れじゃない…?)」
口許を歪ませたままの骸を余所に 羊皮紙を食い入るように観察する。すると、なんと表面にはミジンコサイズの文字が整然と並んでいた。薄汚れていると思ったのは 小さな黒字が表面を覆っていたからなのだ。何も知らぬ人間に気づかれぬよう故意にしたのか。若干幻術も併用しているようだった。
「骸様…何が書いてあるんですか…?」
「匣の設計理論のようですよ」
「設計理論…」
「見たところ普通の匣ではありませんが……ああ、そういえば…」
「?」
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