恋雨
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あの日もこんな雨の日だった。しとしとと降る雨の音をホームで聞きながら、私、久留米望(くるめ のぞみ)は駅の自動販売機で買った紙コップ入りの抹茶オレを飲んでいた。
氷をがりっと噛んでふと天を見つめる。彼との思い出がまるで走馬灯のように蘇った。
ボーッとしていると、ホームに電車が来ることを知らせるアナウンスが響いたことで我に返り、慌てて学校方面へ向かう電車に飛び乗るという日が続いていた。
彼こと藤橋光(ふじはし ひかる)と出会ったのはまだ梅雨と程遠い、春の日差しが降り注ぐ頃であった。自宅の近くに新しくできた予備校の講師であった彼は私より6歳上の26歳。私はその予備校に通う生徒であった。と言うのも、その予備校はあと1年後に待ち構える就職活動のために必要なのだ。つまり、資格専門の予備校である。
「あんたはあと1年で就活なんだから、ここにでも行って資格を少しでもとれるように勉強したらどうなの?」
すべてはこの母の一言と、新聞の中に挟まっていた1枚のチラシであった。
「ええ…就活までまだ1年もあるじゃん。しかも資格のためにわざわざ塾とか…面倒臭い。」
私はチラシを投げながら母に言った。
「そう言っているとすぐよ。そんなこと言わないで頑張ってみたらいいじゃない。」
と言われ、渋々私はこの新しくできた予備校に通うことにしたのだ。何より決め手は家から自転車で10分。その後に学校へ行っても充分に間に合う時間だと言うことと、自分のスケジュールに合わせて予定が組めるのだ。
この2点の決め手がなければ、私は通わなかった。親が何と言おうと断固拒否だっただろう。
初めて予備校に行った時の緊張は今でも覚えている。その日は学校が早く終わったので、夕方から夜の時間帯に行った。
私の資格の勉強は最低でも3ヶ月はかかるということで、嫌でも3ヶ月以上は予備校にいなければならない状況に愕然とした。学校の友達も知り合いもいない環境で、3ヶ月もつ自信は無かった。
「さっさとここでの勉強を終わして、資格をとりに行かなくちゃ。一刻も早くこの環境を脱出したい。」
私の中にはその考えしか無かった。
入ってみると教室は通常の公立学校と似たような机と椅子が並んでいた。黒板ではなくホワイトボードで、きちんとスライドショーを映す機材も揃えられている。
「やっぱり新しいだけあって良い設備だな…。」
一人呟くと、私は適当に座った。私と同じように資格にとりに来ている人が私の後から不安げに教室に入って来た。
「良かったー。私だけじゃないみたいで。マンツーマンだったら嫌だもんな。」
結局教室には私を含めて5人であった。学校の授業と比べると少人数制である。
その中で女子は私ともう一人。後の3人は同級生くらいの男子であった。
「やっぱり男子のが多いか…。」
私は溜め息をついて、恐らく使うだろうと思って持ってきたルーズリーフと先程受付で渡されたテキストを机の上に並べていた。テキストをぱらぱらとめくっていると、「あの、すみません。」と声を掛けられた。私以外の女子であった。
「隣、いいですか?」
「はい。」
彼女は私の隣に座った。その後はお互い何を話す訳でもなく、開始を知らせるチャイムが鳴った。
チャイムが鳴っても、暫く講師の先生の姿が見えなかった。私はひたすらテキストを熟読していたが、周りの子たちがそわそわし始めていた。小さな声で皆が「まだか…」と口々に言っているのがわかった。
結局、講師の先生が来たのはチャイムが鳴ってから 10分後のことだった。
「遅くなってごめんね〜」
と言いながら入って来たのは、大学生くらいにも見える若くて爽やかな男性だった。一言で言えば“イケメン”だった。
「他の先生と話してたらこんな時間になっちゃったよ。本当にごめんねー。」
先生はホワイトボードに自分の名前を書き始めた。
「藤橋 光です。この塾の講師であり、塾長でもあります。この資格の授業は私とあと2名の先生がいらっしゃいますので、3人で担当します。宜しくお願いします。」
生徒は全員軽く頭を下げた。
「私の自己紹介が終わった所で…じゃあ今度はみんなに自己紹介してもらいます。左側に座ってる人から行こうか。」
左側は縦に3人の男子が並んで座っていた。一人一人挨拶していくと、すぐに真ん中に座る私達女子の番になった。
「じゃあ、左側の女の子から行こうか。」
私だ。足を震わせながら立ち上がった。
「久留米 望、大学3年生です。がっ…頑張ります!!宜しくお願いします。」
人前で話すのが苦手な私は必死で挨拶した。終わった後に「宜しく」と言って笑った藤橋先生の笑顔が今でも忘れられない。凄く優しい笑顔だった。
1日目はさすがに講義はしなかったが、これからの授業の流れが話された。所謂「ガイダンス」のようなものだ。
授業が終わった後、帰る準備をしていたら隣の女の子が話し掛けてきた。
「これから授業一緒になるかもしれないから宜しく。私、高麗塚美菜(こまづか みな)です。望ちゃんと同じ大学3年生だよ。」
「こちらこそ宜しく。」
女の子は私達しかいない。お互い仲良くしようと話していた。そして同級生なので、タメ語で話すことになった。
2人で塾から出ると、1人のワンピースを着た女性が闇に飲み込まれてしまったような黒い色をした車のそばで立っていた。白いワンピースだったので、夜に一筋の光が灯ったような印象を受けた。
年は私達と同じくらいの、モデルをやっていそうな綺麗な女性だった。
「あの女の人誰だろう…。」
「あの先生の中の誰かの彼女だったりして。」
美菜はスマートフォンを見ながら言った。
「そうか。彼女ね…。」
「あ、私迎えに来た。じゃあ望ちゃん、また明日!!」
「またね〜」
私は何か妙な胸騒ぎのような、落ち着きのない感情を覚えていた。よくわからない変な感情だ。
この日、生暖かい湿気を含んだ雨が降っていた。
授業は思いの外難しかった。私は頭が良い方ではない。そして何より物覚えが悪かった。だから、専門的な用語を覚えるのも一苦労だ。
「美菜ーここ、どうやったらわかる?」
美菜の大学は偏差値が高いことで有名な学校であった。だからわからないことは大概美菜に聞いている。
「望、ここはこれと繋がってるんだよ。ほら、そしたらここが解けるでしょ?」
「ああ、本当だ!!ありがとう!!」
こんな調子で果たして資格に合格できるのだろうか…私は少し不安に思った。そんな美菜とのやり取りが気になったのか、藤橋先生が近付いて来た。
「久留米はまた、わからないわからないって言ってるのか。」
先生は呆れている。
「だって難しいんですよ。馬鹿な私には苦しい問題です。」
「高麗塚はわかってるみたいだぞ。」
「美菜ちゃんは私と頭のつくりが違うんです。」
先生は、ははっと笑った。
「もしどうしてもわからないことがあったら高麗塚だけじゃなくて、俺にも聞いていいんだぞ。いつでも相談しに来なさい。」
その先生の言葉と顔の近さに一瞬ドキッとしてしまった。
「あ…はい。」
私は暫く頭がボーッとしてしまったが、すぐに頭を切り替えた。
「やだ、集中しないと…集中、集中。」
この気持ちは何だったのだろう…。私は目の前のことにただ集中しなければと自分に言い聞かせていた。
入塾してから1ヶ月がたった頃、私は学校に行く前に資格担当の菊名先生に時間割の相談をしに来ていた。
私の取得しようと思っている資格担当の先生は、前にも述べたが3人おり、そのうちの1人が藤橋先生であり、もう1人が主にスケジュール調整の時にお世話になっている30代くらいの女性の先生である菊名先生。ちなみにもう1人はあまりお世話にはなっていないが、所謂団塊世代の男性で名前は確か、宝先生と言っていた。
「菊名先生、この日は2時間この単位関係の授業で良いですか?」
「そうね。この後にこの授業を入れれば今月は完璧。もし用事が急に入ったりして予定がズレそうだったらまた相談に来てね。」
「ありがとうございます!!」
スケジュール調整が終わって外に出ると、駐車場で賑やかな声が聞こえた。
「ん?誰だろう…。」
駐車している車と車の間に男女が1人ずつ見えた。よく見てみると…
「あれ…藤橋先生…。」
そこにいたのは授業の時と同じく、優しい笑顔を見せる藤橋先生であった。そして話しているのは、入塾1日目に夜の駐車場で見た白いワンピースの女性であった。
あまりに呆然と見ていたのだろう、先生がこちらに気がついた。
「おお、久留米!今から学校か?頑張れよ!!」
遠くから私に言っている声が聞こえたが、私の頭は考えることを止めていた。とりあえず返事の代わりに一礼をして、その場を離れた。
駅のホームに着いてからも私は呆然としていた。別に先生が好きだった訳ではないが、心のどこかで彼女の存在を否定している自分がいた。
「はぁ…」
ふと溜め息が出た。それと同時くらいに雨が降り、段々雨足が強くなってきた。
「何でこんなにがっかりしてるんだろう。意味わからない。」
気持ちが自分の中で整理出来なくなった私は、用語を覚えるために広げたテキストをじっと見ていた。しかし、そこには物覚えが悪い私のために藤橋先生がボールペンで説明書きなどした書き込みがあった。
「こういう時にどうして書き込みが…。もう嫌だよ。今一番思い出したくないのに。」
この時の私は認めたくは無かったが、恐らく藤橋先生のことが好きだったのだ。こんな馬鹿でどうしようもない生徒を諦めずにちゃんとわかるまで教えてくれる優しさとあの笑顔に惹かれていたのだろう。それが先生にとっては当たり前のことであるかもしれないが、それでも塾に通ってから1ヶ月、私は恐らく叶わないだろう恋をした。
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