03

ギィ、と、遠慮しながら扉を開ければ、昼下がりのそこは落ち着いた安らかな空気が漂っていた。
どうやらあの男は無事なようだ。まだ目は覚めていないようだが、横で庇われた女が甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
「名前」
「母さん」
手ぬぐいで手を拭きながら、白衣を赤く染めた母が近づいてきた。こんなことは日常茶飯事でもうなれているからいちいち血に驚いたりはしない。恐らくあの男を治療していたのだろう。
「天人と戦ったのでしょう?怪我は?あの人ったら何にも言ってくれなくて」
「……平気だよ、少し頬をかすっただけだから」
父はきっと傷ついているのだろう。
悪く言えば、息子を愛していることで息子を失望させてしまったのだから。
そんなつもりはなかったものの、事実少しは呆れてしまった名前は母の話を聞いて複雑な気分だった。
「そう、それならよかったわ。それでね」
血のついた白衣を脱ぐ。名前は随分と井戸で呆けていたらしい。生々しく男の血が付いたはずの白衣はもうほとんど乾いていた。
「天人がどんな様子だったのか教えてほしいの。幕府に連絡して警備を回してほしいと頼もうと思うのよ」
まだどこかにいるかもしれないし、皆怪我をしてしまっているから、そう続けた母の顔に焦りが浮かんでいるのにようやく気付いた。
そうだ、名前が撃退したものの、未だに仲間が潜んでいる可能性はものすごく高い。逆に名前が行動を起こしてしまったせいで報復に来ないかが心配だ。
戦った時の近くの気配からまだしばらくは大丈夫だとは思う。それでも対策は早ければ早いほど良いに決まっている。
「わかった、俺から幕府に伝えるよ。母さんは一段落ついたみたいだから休んでて」
「…わかったわ。ありがとうお願いするわね」
ひとつ長い息を吐いて近くの椅子に腰を下ろした母を見届けて、名前は電話をしに部屋を横切った。
番号を押し、数コール後にかしこまった男の声がする。
対応は、簡潔にいえば事務的で親切だった。
電話に出た男はマニュアル通りの様な受け答えをして、人が沢山襲われたことにも声色ひとつかえずに言葉を返す。
どうやら近くの警備をこちらに回して特別警戒をとってくれるらしいが、やけに抑揚のない声が酷く薄情に聞こえた。
……本当にきちんと対応をしてくれるのだろうか。
話だと夜までには部隊がこちらに到着して安全を確認できるまで警護にあたってくれるそうだ。
ただどうしても、まるで流れ作業の様な対応だったことが気にかかる。
だが頼れるのは幕府だけなのだ。

空の色にじわりと濃い紫が散り始めてからすでにもう二刻が経っていた。
夜までに対応するという幕府の言葉が本当ならばもうとうに警護部隊が到着していてもおかしくない時間だ。
昨日もそうだったのだが、こんなことがあったせいか村人は陽の落ちる前には家にこもり、不用意な危険を回避しようと静まり返っている。
外を誰かが歩きまわる気配はひとつとして無い。
もちろん、幕府の人間のものも、だ。
「おかしいわね、…あなた、連絡をとってみない?」
不安げに母が父にそう問うと、父は少し逡巡した後に静かに首を横に振った。
「もう少し待ってみよう。幸い天人がうろついている気配はまだない。幕府も各地の対応に追われているはずだから…」
そうは言うものの、父の視線は微かに揺らいでいた。村の状況を憂いているのか、はたまた幕府へ不信感を抱いているのか。
「でももう陽が落ちてから大分経つのよ。気配が無いって言っても近くに隠れているかもしれないんだから…」
「………」
「俺がかけるよ」
迷う父に名前はきっぱりとそう言った。父の言うことも間違いではないのかもしれないが、どうにも名前には昼間の幕府が信用ならなかったのだ。
「話が違う。いくら忙しいって言ったって、もし遅れるならそれなりに連絡くらいしてくれてもいいんじゃないかな?」
「…そうだな」
父が目を伏せるのを見届けて、名前は受話器を取った。
縋るしかない相手を信じられないなど、なんという皮肉なのか。
昼間も押したボタンをまた選ぶ。迷いなく右手の指がボタンの上を動くが、その指が微かに震えていることに名前は自分で驚いた。
信じられない、信じられないから不安なのだ。自分達ではない。ここにいる全ての人がそう思い、そして互いの無事も不安に思っている。
ボタンを押し終えて、震えを消すようにそのまま右手をぎゅっと握りしめた。
(大丈夫、もうすぐ警護が到着するって言ってくれる、はず)
2コール。
4コール。
受話器を持つ手に僅かに汗が滲みだす。心臓が大きくひとつ脈を打った。
10コール。
後ろからの両親の戸惑う視線を感じた。
頼むから、これ以上不安にさせないでくれ―――…!!
そう切に願い、ぎゅっと目を瞑り受話器を一層固く握った時に、事は起きた。
森の方から大勢の足音が聞こえてきたのだ。それも、バタバタと騒がしく走って、同時に遠くから近付いてくる小さな赤い光がいくつも見えた。
ガタン、と大きな音を立てて父が椅子から立ち上がった。
「…火、だ……!!」
窓から外の様子を見て、愕然とした声が漏れる。
ついに名前は鳴りやまないコール音を聞くのも忘れ、固く握っていた受話器を滑り落とす。まだ無機質な音は続く。一向に出る気配は無し。
「村人を逃がさなければ…!!」
父はそう鋭い声で言って、母に目配せして治療場を飛び出していった。
「名前、手伝って!」
「わ、かった!」
嫌な予感は当たってしまった。
再度天人がこの村に襲撃に来たのだ。
名前と母はまだ怪我が治っておらずに治療場に入院していた患者を裏手から逃がした。
しかしこの傷では遠くまで早くは動けない。名前は唇をかみしめた。
そうこうしているうちに村の一部がぐるりと火で取り囲まれているのが見えだす。
天人の到着だ。三つある村からの出口のうちのひとつを完全に封じられた。
なんとか治療場の人々は大方外には出せた。あとは父が呼びかけてくれた人が手伝いに来てくれて、何とかして逃げおおせるのを祈るだけだ。
最後の一人を裏口から逃がそうとしたその瞬間、バン!と大きな音を立てて治療場の入口がけ破られた。現れたそのシルエットは、やはり昼に見たあの猪の様な天人だ。
「ようガキ!お寝んねは良いのかよ?」
ニヤニヤと黄ばんだ歯をむき出して天人は笑う。名前は母が患者を逃がしているのを見られないように、とっさに刀を取っておもむろに斬りかかった。
「はああああ!」
「おっと」
まずは時間さえ稼げれば良い、そして命があればいい―――
正面から天人の視界を防ぐように突進したその一撃は当たり前の様にかわされた。
しかしそれは想定済みだ。名前は近くにあった椅子を天人に向かって放り投げる。天人はそれを松明を持たない手で殴り壊した。その手が下を向いた瞬間に、名前は天人へ体当たりをして治療場から押し出す。
(母さんが裏手から逃げてくれれば…)
ドサッと音を立てて天人と名前が重なり倒れこむ。動揺する天人を見ると、昼のことも考えどうやらあまり頭の良い種族ではないようだ。
すぐさま体を起こし、天人が持つ松明を蹴り飛ばす。
明かりを失った天人は焦りだし、名前につかみかかってきた。袂を握られそのまま投げ飛ばされる。地面に打ち付けられて一瞬息が止まったが、背骨が折れたりはしていない。大丈夫だ、起き上がれる。
投げ飛ばされたお陰で天人と距離が出来た。それを保ちながら昼と同じ戦法で倒すしかない―――
そう決心して前に向き直る。しかしそうした名前の視界には信じられないものが飛び込んできた。
景色一面を彩る、赤。
ごうごうと音を立てて、赤が踊る。
「な……!!!」
家という家が、燃えていた。
全ての音が消え失せる。真っ赤な色に意識を乗っ取られたように何も考えられなかった。
軋む首をなんとか回して左を見た。右も見た。しかしどこもかしこもどす黒い煙を吐き出しながら家がただの薪へと変わっていく様しか見えない。
前に視線を戻すと、治療場に乗り込んできた天人が別の天人から松明を受け取っていた。照らされた顔は、倒れこんだときにぶつけたのか僅かに腫れていたが、愉快そうに口角が上がっていた。
それを認識すると同時に世界に音が返ってくる。赤ん坊の泣き声が聞こえた。絹を裂くような女の悲鳴も、痛みに呻く男の声も。
全てが赤に支配されていく。
夜だったはずのこの村は今や明るすぎるほどに照らされていた。
名前は膝をついたまま動けなかった。正常な思考が戻らない。これは、何だ。
「っ…、!!」
茫然と嬲る赤をその目に映していたら、ザザッと右側に何かが滑ってきた。
その姿を確認して名前は息をのむ。
…昼間に助けた女、だった。
「な、っ…!!」
弾かれた様に立ち上がりその女の元へ駆けた。僅かに離れた所から天人の笑い声が聞こえる。
「しっかり、しっかりし…ろ……」
うつ伏せになっていた女の体を抱き上げて上を向かせる。息だけでもしていてくれたら。
そう願った名前に突き付けられたのは、白く濁った眼だった。
口から流れ出ている血の量が尋常でないことから、内臓にダメージを受けたのだと推測できる。
それならばむやみに動かしてはならない。うつ伏せに倒れていたから、もし肋骨が折れていたら心臓に傷をつけてしまうかもしれない。いや、違う、まずはこの目の白い濁りが何なのか、気をつけないと失明してしまうかも、ああでもこの血の量はまずい、これでは死んで、しまう……
そこまで考え、名前の目からは気付かないうちに雫がこぼれていた。
震える手を懸命に動かして、女の手首を取る。
そこに存在するはずの命の鼓動は、その動きを止めていた。
手にあたる顔がやけに冷たく感じる。そして、まったく力が入っていないはずの体は硬くなり始めていた。目が濁った理由だって本当は知っている。
視界が滲む。
「馬鹿が!逆らうからこうなるんだよ下種どもめ」
「ちょーっと素直になりゃこんなことにはならなかったのになァ」
そう言っておかしそうに笑い転げる天人の声が耳のすぐ傍でぼやけているような感覚。
離した手首はズル…と静かに垂れ下がった。
まだ泣いている赤ん坊の声と、舐めるような劫火が現実を呼び戻す。
カチャ、と音を立てた刀を固く握りしめた。
ぼんやりと顔をあげれば、周りには女とよく似た格好で地面にうつぶせている人がたくさんいた。積まれて山になっているのも、あった。
眼球の奥がズキンと痛む。



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